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第32回  韓国が見えないのに《韓国岳》というのはなぜか?


鹿児島宮崎両県にまだかる霧島連山は、古代より信仰の対象として崇拝されてきた山々です。その秀麗な姿は、全国でもまれに見る美しさです。日本で最初に国立公園に指定されたのも頷けるというものです。
 その霧島連山の中でもっとも高い山が《韓国岳》です。九州では、屋久島の宮之浦岳、大分県の久住山についで高い山です。そこで今回はこの《韓国岳》についての謎を考えてみたいと思います。
 霧島を訪れたことがある方なら一度は、《韓国岳》の名前について不思議に思ったことがあるのではないでしょうか。ほとんどの方は《韓国が見えるから》なんて考えたりします。しかし地図を見れば一目瞭然、実際この山に登山した方には、さらに一目瞭然、韓国など見えるはずがありません。地元霧島の資料館に行ってみても、確かな答えはありません。


 この山の名前の由来については、大和岩雄氏が《秦氏》の研究の中で指摘されていることが、ほぼ的確な回答だろうと思います。
 簡単に言えば、この地に8世紀はじめから、朝鮮半島からの渡来系(秦氏系統)が大量に入り込んできて、現在の国分隼人(霧島市)を中心に定住し、古代からの隼人族の中に打ち込まれたくさびのごとく、隼人族懐柔策の一環として時の政権による極めて政治的決断であったというものです。以後現在の霧島市を中心とした地域は、当時、豊前豊後地方にいた朝鮮系渡来人が移住してきた地域で、国分隼人から見える霧島連山の秀麗な山々の姿が、故国(朝鮮半島)の山々を髣髴させるものであったろうと推測されます。彼らは、この霧島連山最高峰の山に、故国への追慕を寄せて、故国の方角を見たことだろうと思います。その最高峰の山に《韓の国》を想起しながら《韓国岳》と表記したのではないかと推測されるのです。

 国分隼人地方、現在では新制霧島市として誕生していますが、この地域に残されている秦氏系統の強いつながりの痕跡。
@国分に残されている《韓国字豆峯神社》。豊前国から遷されたものと神社由来紀にあり。
A江戸時代までのこの地方の呼称は《桑原郡》。桑原とは、養蚕の際に必要な桑の木の畑のこと。戦前まではこの地域では養蚕業が盛んで、現在の隼人日当山地域は、ほとんど桑畑であった。秦氏は殖産民で養蚕業にも秀でていた。
B隼人にある鹿児島神宮の別名は 《正八幡神社》。八幡神社の本家本元の《宇佐神宮》を意識したもの。
C和気清麻呂が配流されたと比定されている、現在の牧園町中津川周辺の地名と大分県の地名の類似性。中津川、犬飼など。移住民が地名を引きずっている証拠。 和気清麻呂は大隈に来る前に、豊後の宇佐八幡宮を経由している。
D大和岩雄氏も指摘されているように、この地を7百年以上にわたって支配してきた島津氏。島津氏が秦氏系統の惟宗氏であることは周知の事実。これを偶然と言うには出来すぎの感あり。支配するもの、支配されるもの、いずれも親近感なり、ある深層に通底するものがあってこそ可能だったのではいでしょうか。支配、被支配という構図より、むしろ一心同体というのが、薩摩の軍事力の強さの背景になっています。


写真上は、鹿児島県霧島市国分にある《韓国宇豆峰神社》。ところで、《宇豆》は《ウズ》と読みます。これは明らかに《太秦ウズマサ》のウズを意味していると考えていいと思います。


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