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第31回  鹿児島に寺院がほとんどないわけ その2



写真は姶良町天福寺跡に残されている頭部が壊された仁王像

 明治維新の歴史の中であまり語られない歴史の暗い一面としての廃仏毀釈は、薩摩の地では確実にその傷跡は各地に散見されます。 薩摩での廃仏毀釈運動は、薩南学派と呼ばれる朱子学から、国学の台頭の動きの中で起こってくるわけです。

 徳川家康が藤原惺窩の勧めで林羅山を幕府御用達の学者として抱え、朱子学を幕府を支えるための思想として利用していきます。しかし、同時に《支配の正統性》の問題を朱子学の思想そのものの中に萌芽として抱え込んでいたので、朱子学をまじめに勉強すればするほど、《支配の正統性》が気になり出します。
 かくして朱子学から国学へと思想の繋がりが江戸時代を通じて起こってくるのも自然のことだったと言えます。
 薩南学派と呼ばれる筋金入りの朱子学の伝統があった薩摩の地に、国学へ転向していく下地は十分にあったわけです。 薩南学派は、山口生まれの臨済宗の高僧桂庵玄樹が薩摩の龍雲寺の玉洞に招かれ、薩摩の地に下ってきたことに始まります。
その後 守護島津忠昌から寺領を受け、薩摩の地で朱子学を教え始めます。ここに薩摩に朱子学の本流といつていいものが受け継がれていきます。朱子学の本流は 藤原星禍や林羅山と考えられていますが、日本儒学の嚆矢は薩摩の地と言えます。
藤原星禍が朱子学を学ぶために宋に渡ろうと薩摩山川に滞在していたとき、桂庵玄樹とその流れを汲む南浦文之の儒学四書に関する注釈に接し、真意を得たりと宋への渡海を止めて、京に戻り、教え始めたことはあまり知られていません。桂庵玄樹や南浦文之が居なかったら、藤原惺窩や林羅山が生み出されたかどうか定かではありません。

 これで薩摩の地が 筋金入りの朱子学の思想が浸透していた地であることはお分かりいただけたかと思います。 薩摩の地で国学が一層盛んになるのは 第25代当主島津重豪をきっかけにしているようです。その重豪の膝の上で育てられた島津斉彬は、一層国学重視の姿勢を強め、神仏分離政策を推し進め、藩内の寺院の梵鐘を徴発して武器製造に充当しようとしていたようです。
幕末の薩摩藩にとって、何よりも富国強兵が必要で、そのためには、寺院勢力の経済力がどうしても欲しいわけです。
寺院を軽視する思想の土台は、長い間の伝統によって用意されていました。
島津斉彬の意志は当時の薩摩藩士の中で受け継がれ、島津久光もその藩全体の意志を奉じる形で、神仏分離政策を推進していきます。
当時の家老桂久武を責任者として寺院の解体が進められます。
 維新を迎えた薩摩では、新政府の財政難を支える意味からも、寺院の財産没収と僧侶の兵士への転職の一石二鳥政策が進められていきます。
この結果として 藩内の寺院1066が廃寺となり、2964人が失職、結果として多くものが軍人となり、薩摩藩が得た財源は、寺領合わせて約10万石と言われています。
幕末の薩摩藩、そして薩摩藩主導による明治新政府の当初の意図がどのあたりにあったのか推測できます。

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