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第40回  薩摩はホモ王国だった??


  サムライのことをいろいろ調べていて、一番気になることの一つに《男色》というのがあります。サムライについて書くとき、できるだけかっこいいイメージとして描きたいとう衝動もあるにはありますが、それでも調べれば調べるほどサムライたちの性については、現代日本人の常識とはかなり異質なものがあり、これを避けてサムライを語ることはできないと思うに至ったわけです。
 サムライたちの《男色》についての豊かな実例は氏家幹人氏の《武士道とエロス》の中に述べられていますので、具体例に関心のある方は一読をお薦めします。

 その本の中で、私が気になった箇所がありまして、それは男色の気風が強固に最後まで残っていたところとして薩摩の国に触れられている箇所です。私も現在《薩摩》の風土については並々ならぬ関心を持っていて、この地方の風土が《明治》という歴史的事件を通じて全国に与えた影響は皆さんが想像しているようなレベルではなく、それ以上のものというのが、現在の私の思いです。
 その点については今後の課題として、今回は、薩摩の《男色》の伝統について、触れておきたいと思います。

 氏家氏の本の中で触れられていたのは、江戸中期以降衰えていた男色の風潮が明治初期の頃、再び台頭してきた理由として、明治維新を実行した中心的藩であった薩摩の青年たちが東京に例の風潮をもたらしたとする見方が、当時の大方の了解であったことが紹介されています。そして、なぜ薩摩には、全国的には消えかかっていた男色の風潮が残されていたのか、その疑問点には、薩摩独特の教育制度であった《郷中教育》を挙げているわけです。《郷中教育》については、《薩摩紀行》シリーズの《薩摩は軍事大国だった》の中でその背景として指摘しておきましたが、薩摩が他の藩に比較して抜きん出で軍事的性格が強かった伝統と、《郷中教育》の中に潜んでいた《男同士のエロス的要素》とは、密接な関係があったと考えています。氏家氏が紹介しているオーストラリアのクラウスが観察した明治時代の日本兵の間における友情は、同性愛とも言うほどのもので、日本兵が死を恐れず、むしろ軽んずる傾向を、同志に対する《愛》と見抜いています。それはエロスを伴おうが、そうでなかろうが、、限りなくそれに近い感情によるものであろうで紹介していますが、その推測は、戦国時代のサムライたちのエトスにも該当するものであろうと、私は考えています。

 薩摩のサムライたちの戦術の特色は、沖縄手の戦い、戸次川の戦い、根白坂の戦い、そして関が原の退却戦の中に読み取れるように、今日の感覚で言えば、ほぼ玉砕戦の様相を呈する戦い方にあります。兵士を盾にして、最後の一兵までも戦い抜く総力戦です。その薩摩兵の強さを支えていたのは、一人一人のサムライたちの兵士としての技術力の高さもあるでしょうが、間違いなく大将から一卒の兵士に至るまでの《心情的な一体感》であり、その士気の高さなしには彼らの戦術そのものは実行できなかったはずです。

 日本最後の内戦と位置づけられる《西南戦争》にしろ、あの時、西郷隆盛が根占で弟子たちの弾薬庫襲撃をきいて腹を決めた西郷の思いは、かわいい弟子たちに対するある種の《愛情》であり、最後まで西郷に従う弟子たちの姿は、西郷に対する《愛》としか理解できないのです。それを《義》と読み替えることも間違いではないでしょうが、幼少の頃から寝食を共にしてきた《郷中教育》の中で育った彼らの間には、《義》だけでは包摂できない男同士の愛情らしきものがあったと思っています。それが戦国時代から江戸時代初期に当然視されていた性的関係を伴った愛情であろうが、なかろうが、現代の私たちが一般的に女性に対して向ける《愛》を彼らは、同志に対して抱いていたのだろうと思われます。

 薩摩の中に強固に残されていたこの《男色》の伝統は、《郷中教育》の中に生まれたものではなく、実はもっと遡れると考えています。その伝統のルーツは、新羅の花郎の風習ではないかと推測しています。これについては、大和岩雄氏が、薩摩の稚児や二才(にせ)という若者集団を特別視している伝統と新羅の花郎との関係を積極的に主張していて、その根拠として指摘しているのが、古代における豊後豊前の新羅系移民の大隅移住の歴史的事件です。この大隅とは現在の国分市(霧島市)一帯のことで、稚児の風習が最後まで残っていた土地として国分を大和氏は指摘しています。

 島津氏と薩摩とは、単なるめぐり合わせではないだろうと私は推測しているわけですが、その件については今後の調査を踏まえて改めて書きたいと思いますが、島津氏は古代からあった伝統を引き継ぐ形で薩摩の伝統へと高め、それが《郷中教育》の中に受け継がれていつたのではないかと思われます。島津七百年間、険しい自然地形に囲まれ他国との行き来がない、事実上の鎖国状態の故に、その伝統は 他の藩では既に死滅してしまったというのに、長く温存されていったのではないでしょうか。それが明治の時に政権を取ったために、東京に薩摩の風習が入るきっかけとなったということだろうと思います。

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