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NO.43 薩摩は軍事大国だった

 
  江戸時代から明治維新までの日本の身分制社会の中で、武士人口の全人口に住める割合は、全国平均で約5パーセントと言われています。しかし島津氏の領国内では、この比率は約五倍くらいになると言われてきました。全国平均が約5パーセントくらいに対して、薩摩藩の場合、だいたい25パーセントから30パーセント近くをサムライ身分が示していました。明治4年時点における薩摩の士族の人口比を示した下の表を見ていただければ、薩摩の異常なサムライ人口がよくわかります。明治4年ですから、西南戦争が始まる前の、いまだ江戸時代の社会的雰囲気が色濃く残っている頃です。
 討幕に向かう薩摩藩の武力、廃藩置県を断行するに当たっての担保としての武力、そして失業状態に置かれた彼ら士族たちの行き場のない絶望感を背景とする西南戦争と、幕末から明治初期まで、日本を動かしてきた中心的なところに、薩摩における異常なまでに多いサムライ人口が見て取れるのではないでしょうか。ある意味では、戦国時代の人口構成を、そのまま引きずっていたがゆえに、軍事的には強かったが、サムライという職業が不必要な時代になってしまうと、単なる重荷でしかなくなるという時代変革時における典型的なパターンが見られると思います。西郷やそれに従う桐野などは、失業した士族に新しい道を見つけてやるための授産所施設や開墾事業など、新規雇用政策のような努力はしたわけですが、それでもその数の多さとその頑な姿勢と柔軟性のなさの故に、明治政府との激突に至ったのも無理からぬ事と思われるのです。

 ところで、その薩摩の武士のことですが、注意しなければならないことは、武士階級といっても薩摩藩の場合、郷士とか有事の際に兵役の義務を負う《人躾士》といって、他藩ではどうみても農民にしか見えない人々が、武士階級の中に組み込まれていたのです。桐野利秋が西郷隆盛に会いに城下へ出向いたとき、土産に《さつまいも》3本を持っていったところ、西郷の家のものに《カライモサムライ》と言って笑われ、西郷が戒めたことは有名な語り草になっていますが、鹿児島の城下以外に住んでいた《郷士》たちのほとんどは、《カライモサムライ》でした。主食に米が食えないほど貧困で、桐野利秋の家は極貧でサツマイモが主食だったようですが、そんな育ちの桐野利秋は軒さしの雨だれが地面に落ちるまでに三回も抜き差しができたほどの示現流の達人でした。そんな極貧生活をしていた人々も一応《サムライ》だったのです。
  したがって薩摩国というところは、現代風に言えば、《人民戦線》の国といってもいいほどの潜在的軍事大国と思います。なにやらどこかの国と似ているようですが、徳川家康も容易に手出しができなかった理由も頷けます。また実は豊臣秀吉が、九州征伐に乗り出してきたときも、秀吉の軍は兵站が伸びきってしまっていて、ぎりぎりのところで島津氏が降参したというのが、実態だろうと考えています。島津義久の弟で後に秀吉に腹を切らされた島津歳久が大口から帰還する秀吉の籠めがけて矢を射ったのも、あながち歳久の腹いせでもなさそうです。秀吉は、できるだけ急いで大阪城に帰る必要があったと見ています。後方支援が希薄な秀吉軍は、薩摩の国内にとどまることは危険な状態ではなかったのでしょうか。
 関が原で徳川家康に歯向かって領土をそのまま保全してもらったのは島津氏だけです。家康が島津氏を潰さなかった理由は多々あると考えられます。琉球を介した中国貿易の中継点としての利用価値、近衛家の存在。同時に家久の粘り強い交渉などの背景に、玉砕戦を省みない気風の薩摩の軍事力は忘れるべきではないと思います。当時島津義久、義弘兄弟と、彼らと寝食を共にしてきた家臣団は存命です。いまだ安定期になかった徳川政権がベトナム戦争のような状況を呈する薩摩との戦の中に身をおかなかったのは懸命だったというべきかもしれません。江戸幕府にとって、潜在的脅威は南海に君臨する薩摩藩だったわけです。

 さて、薩摩はどうしてこのような他国とは異質な軍事大国になりえたのでょうか。薩摩の軍事大国の伝統は3つの流れが考えられます。
 ひとつは、辺境の地で、中央政権から半ば《独立王国》として形成されてきたがゆえに、なんとしてでもこの領土を死守しなければいけないという土地と人間との一体化のなかで形成されてきた独特の意識とその風土から形成されている《猪突猛進》型精神的伝統。この精神的伝統をさらに根底から形成するに与ったのは、古代以来の《夷》の伝統にありと見ています。朝廷にまつろわぬものとして中央政府から制圧され編入されながらも、辺境故に中央の影響もほとんどなく、古代以来の伝統が深層に流れ続けてきたものと考えています。その伝統の核になっているものが夷人としての《隼人》ではないかと考えているのです。
 二つ目は、島津氏とその家臣団とは、他国とは一味違った一体感を通して、死を恐れぬ戦闘集団として形成されていったということ。関が原の戦で、福島正則軍の前を突破していく島津軍団をして、福島正則に《死兵》と言わしめたほどの恐ろしい戦闘集団。最後の一兵までも突撃していく戦闘集団。それらは島津氏の戦法に如実に示されています。その一体感の母体になっているものは、薩摩独特の社会性にあると見ています。その基盤の上に、島津氏の長い支配体制によってさらに主君と家臣団との一体感が増幅されていったということ。
 最後に、この二つの伝統の上に、思想的教育的な伝統が薩摩武士を完成させていきます。その最後の伝統は島津忠良こと日新斉の教えとそれを具体化した《郷中》(ごちゅう)教育です。倒幕に活躍した日本最強軍団薩摩軍は、この郷中教育の生み出したものです。


左の表は原口虎雄氏の『鹿児島県の歴史』より拝借したものです。
 


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