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なぜ徳川幕府は見捨てられたのか


 幕末から明治に架けての動きは、玉虫のようにコロコロ変節して、パワーシフトが起きていきますが、最終的には徳川政権から薩長を中心とする明治政権へとパワーシフトしたわけです。薩長土肥政権という言い方もできるでしょうが、私は明治政権の中心部分は、薩摩と長州と見ています。司馬遼太郎氏も指摘しているように、薩摩と長州だけでは新政府の人材がそろわないので、土佐と肥前を抱き込むという按配だったのでしょう。明治という大きな歴史の流れが、いったん流れ出してしまえば、そこには日本全国からさまざまな支流が流れ込んで大河を作り出すように、流れ出したんだろうと思います。
 余計な話はこのくらいにして、本題に帰ります。結局のところ、なぜ徳川政権は250年の政権を維持できなくなったのかということです。財政的な理由、軍事的理由、後期水戸学などによる大義名分の理由などさまざまな理由は考え付きます。しかし最近私の頭によぎるようになったのは、もっと深いところで、人々の心が離れてしまう状況をつくりだす要因というものがあるのではないのか、というとです。

 財政的な要因といいますが、それを言えば、日本全国のほぼ全藩が、五十歩百歩の状態に置かれていたわけで、その中でも徳川幕府は、正規の年貢収入以外に、貿易による関税収入、貨幣の出目稼ぎ、三都商人からの御用金などによって財政は賄われ、考えられているようほど破綻状態ではないことは《日本経済1 幕末維新期》(東京大学出版)の中でも指摘されているとおりです。薩摩も贋金つくりで軍資金作りに対処します。ほとんどどの藩も資金に余裕はない。
 兵力にしろ、幕府も1862年ごろから幕政改革に乗り出し、フランス軍制に習い、軍の近代化を推進します。その上、留学生も送り出し、学問所も新たに起こし、儒学一辺倒から洋学も教えるようになります。帝国大学(後の東京帝国大学)の基礎を作り出していたのは、明治政府ではなく、徳川幕府ではないかと思うほどです。
  このように見て見ますと、西南雄藩が先進的なイメージとして捉えられているようですが、実は幕府そのものもそれに劣らず先進的な改革を進めているわけです。このあたりのことは、歴史ドラマの中でもほとんど扱われませんので、まるて幕府は生きる屍(レームダック)になっていたようなイメージを作り上げられてしまっています。誰も徳川政権が倒れるとは思っていなかったと、明治になり幕府内部の人間が回想しているように、、実にそれが正直な感想だろうと思います。ぎりぎりのところまで実は政権がどちらにころぶかわからなかった。表面的に見れば、このようなことだろうと思います。

 しかし、社会内部では大きな地殻変動が起きていた。そのことに幕府は気づかなかった。

 そしてその地殻変動とは、何かと申しますと、《まつりごと》を行う資格がなくなったと人々が思い始めたということではないかと思うのです。例えば、その昔邪馬台国では国難が続き、卑弥呼の祭祀者として能力つまり資格が消滅したということで消される。卑弥呼は、あくまで邪馬台国の人々に為政者としての《安定》を保障する必要がある。その《安定》が提供できないと、祭祀者としての能力なしと見なされ、政権交代させられる。卑弥呼は絶対的な独裁者のような存在ではない、あくまで人々の総意としてその共同体の《為政者》として立てられている。ここには人間社会における、《支配するもの》と《支配されるもの》との間の絶妙なパワーバランスが見られるのです。生物社会によくみられる現象とまったくおなじ現象が見られる。生物学の成果から私たちが言えることは、マクロ的に観察して見れば、人間の社会もまた生物の行動原理によって行動しているという事実です。
 支配されているものが、支配者として的確でないと見なすと、群れからはじき出される、社会からはじかれる、そして新しいボスザル、群れを統率するライオンが迎えられる。これとおなじ行動が行われたと考えられます。
 動物の社会では、その判断は、あからさまに、《力》でしょうが、人間社会の場合、それはさまざまな思想や教義によってオブラートされていますが、最終的にはやはり《力》なのでしょう。単なる軍事力という意味合いだけではない《力》でしょう。群れのそれぞれのメンバーに《安定》を供給できないとき、パワーバランスが崩れる。徳川政権のパワーバランスが崩れたとき、後期水戸学によって育成された支配の正統性が入り込む隙ができたわけです。パワーバランスが安定していれば、支配の正統性など付け入る隙はできないはずです。
  例えば、承久の乱の場合、まさしく支配の正統性が問われているわけです。それまでの歴史的経過からすれば、後鳥羽上皇側に支配の正統性があります。朝廷がわにこの国を統治する正統性があるわけです。しかしそれが逆転する。そして武家政権が始まります。この政権の移動、つまりそれは支配の正統性の移動ということなのですが、なぜそれが起こり得たのか、それと同じ問題が徳川政権崩壊過程の底流に流れていると思うわけです。ここには正統性の本源がどこにあるのかという哲学的な問題が見え隠れしてきますが、それは私の能力を超えていますので専門家にお任せします。

 江戸時代全体を通して、秩序を保つための思想とその教化ということはなされてきたわけです。そのため250年間という長きに渡り、ひとつの社会を統治することかできた。しかしそれまでの正統性が保てなくなる、それが幕末だろうと思う分けです。 

 それではなぜそれまでの正統性が保てなくなったのか、つまりパワーバランスが崩れたのかということです。私は、幕府がアメリカとの条約を締結するに当たって、全国の大名ならびに朝廷に諮問した、その瞬間だったと思うのです。特にそれまで政治の外においてきた朝廷にまつりごとの件で相談したこと、これがパワーバランスが崩れ始めた瞬間だったと思います。時の老中首座阿部正弘は、幕府祖法の鎖国政策に抵触することを覚悟して、挙国一致体制によって難局に対処しようとします。それではなぜ阿部は幕府の一存で対処しようとしなかったのでしょうか、正確に言えば、なぜできなかったのでしょうか。
 ここで比較対照として、北条時宗と元との対外関係、足利義満と明との対外関係、織田信長と南蛮との対外関係などを考えて見ますと、おもしろいと思います。彼らと阿部正弘との違いは何だろうか。これについては、今後の課題としておきたいと思います。

 最後に、阿部正弘が幕府一存にて条約締結ができなかった事実―これが《まつりごと》の正統性を幕府が失った瞬間であり、尊皇攘夷思想は、その傷口から入り組んでしまった細菌のようなものではないかと思うのです。体力的には幕府は大丈夫だと最後まで思っていたのでしょう。幕府倒壊の傷口を作ってしまった阿部正弘という人物に妙に関心がわきます。

 
 
 



 
 


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