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No.46 将軍家茂は毒殺されたのか

 第14代将軍徳川家茂は、長州征伐の最中、大阪城中にて急死するところまではご存知の通り。享年わずか21才。若すぎる死。
 この家茂の急逝は脚気による急死というのが通説として流布しているようですが、中には毒殺という説もある。

  今回はその毒殺説を主張している蜷川新氏の『維新正観』を紹介しよう。蜷川氏は、幕末の幕臣小栗上野介の甥にあたる人物で、父が将軍家茂の小姓組頭を勤めていた人です。

 『維新正観』によれば、彼の父蜷川左衛門尉親賢は、長州征伐当時も小姓組頭として将軍に近侍し、事の次第をよく知っていたと言う。 ある日大阪城中にて茶を飲んでにわかに苦悶はじめて突如として死去したというのである。 和宮は家茂の遺骸に対面されることを望まれたか、老中は遺骸をおさめてある棺の蓋を開ける事を許さなかったと言う。この顛末を作者の母親に伝え、それを母親から幼少のころ聞かされていたと言うのである。
 
   暗殺されとすれば、誰によるものとか言えば、蜷川氏は直接書いてはないが、討幕派による薩長の側によるものと暗示しているようである。 蜷川氏によればその倒幕派に与する中心人物として勝海舟も上げてあるので、勝海舟も疑われる人物ということか。

  蜷川氏の主張の中での疑問点は、茶による毒殺と書いてあるのだが、それではその茶を用意した人物は特定できるはずで、その人物から犯人へとたどれると考えるのだが、そのことは父の証言には含まれていなかったのだろうか。

 一方 将軍の遺骨を調査したとされる鈴木尚の『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家茂の歯はほとんど虫歯であったとされるが、どうも素人考えでも解せない。将軍とも在ろうものが わずか20才そこらの年齢で、正常な歯が一本ほどしか残らないほどの偏食をしていたのかということ。 当時の大名の生活を語っている広島浅野藩の幕末藩主の語っているところでは、実に質素な食事であったそうな。 それは昭和天皇の食事からも想像できるように、高貴な人の食事といえども、偏食になるような食材ばかりを食べていたとは思えないのだが。  京都に上京していた家茂は馬上の人として振舞っているはずである。弱々しいイメージは伝わってこない。

  蜷川氏のこの本は、幕府よりの視点があまりにも強く出すぎでいる嫌いはあるが、 幕末から維新にかけてのドタバタの時代推移の中で、維新とは何だったのか、薩長を中心とする倒幕とは何だったのか、明治国家に一方的に脚色されてきた幕末史に対する新たな視点を提供してくれる本ではある。 

  将軍家茂の死因についても、坂本竜馬暗殺とともに、歴史の中に封印されてきたような気がする。

 
 


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