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6回 根来寺は、傭兵軍団、総合商社だった

 世の時代劇ファンに「根来」と問えば、「忍者」と帰ってくるのはほぼ確実です。実際、家康は彼らを根来組として御 家人扱いで重用しています。 彼らの本拠地根来寺は和歌山県の紀ノ川沿いにあり、現在、日当たりのいい傾斜にその姿をとどめています。しかし 根来寺はその麗らかな 姿からは想像できない程全く異った二度の繁栄を極めた寺なのです。


 最初の繁栄は根来寺創建に関わります。平安末期に高野山で真言密教の探求に励む覚鑁(かくばん)上人は教義 上の対立などが原因で高野山を下らざるを得なくなります。高野山上で彼は真言密教の学問的側面を重要視し「知的な道場」とも言うべき『伝法院』を設け教義を深める日々を送っていたと言われています。しかしその思想に浄土の 考えを採り入れ現世に一歩大きく踏み込んだ「蜜厳浄土」を主張する点で対立する僧との溝が決定的になって行ったと思われます。彼は1140年に山を下り、かねてから平氏より寄進され自ら勧請した神宮寺を根来寺とし新たな活動 を始めましたが3年後にその生涯を閉じました。後の1288年頼瑜僧正が高野山から『大伝法院』を根来に移し巨大な学問的聖地としての名を全国に知らしめる事になります。 いわゆる中世の大学都市としての繁栄で塔堂2700・寺領72万石は我々の想像を絶するものです。緩やかに昇っ て行く勾配を埋め尽くす程の家々、日々到着する地方からの若い修行僧や膨大な人口を支える生活物資の搬入な どで寺域は騒然としていた事でしょう。



戦国時代の寺の性格を物語っている弾痕の痕(写真:林)

 もう一つの繁栄は中世の大学都市とは対極にある武闘派集団の根拠地としての根来です。 時代は戦乱へと傾いて行きます。 寺社は当時政治権力を圧倒する程経済力を強めていたので自らの権益を確保するため自前の武力集団である僧兵を抱えて行くことになります。 根来寺は行人方と称する僧兵を組織しており、リーダーの一人である杉之坊は種子島に鉄砲の伝わった情報を手に入れると自ら入手に赴き、近隣に先んじて新兵器導入に成功します。中央政権の動向 を睨みながら寺を維持しなければならない重圧や寺領どうし互いの権益確保に神経をすり減らせながら、また相次い で起こるライバル勢力との紛争に少しでも有利に立ち回るためにこういった新兵器の話に飛びついたのではないでしょうか。東に隣接する粉川寺も少なからず同様の境遇にあり現在も強固な石垣を当時そのままの姿で残しています。 こういった情報は当時、明との私貿易が種子島や坊の津を中継地として活発に行われていた事や種子島の砂鉄の流通を高野山の別当が大々的に取り仕切っていた事から考え、紀ノ川周辺を訪れる貿易船を介して得られたと考え られます。


 しかしよく分からないのは、(種子島氏が)莫大な代価(現在の価格に換算して2丁で2億円と言われている)を支払って手に入れた鉄砲を杉之坊にただ同然で譲り渡したと伝えられている事です。もしこれが真実であるなら何か別の取引があっても不思議ではありません。考えられるのは既に貿易 の実績のあるこの両者の間で鉄砲の量産と普及を種子島側が近畿圏の巨大な市場を持つ杉之坊に託したのではないかと言うことです。そう考えると鉄砲の存在を”杉之坊側が知った”のではなくて”種子島側が知らせて”杉の坊 を呼んだ可能性も出てきますがこれは推測の域を出ません。 根来寺は鉄砲導入後その軍事的性格を特化させて行くことになります。 杉之坊は津田監物と名乗って(他人とする説もあります)砲兵術を体系化し、その意味で商品化し根来は傭兵部隊 そのものとしても、軍事顧問としても戦国の世に多大な影響を及ぼす集団になって行きます。当時この寺を訪れたキリスト教宣教師の記録を見てもかつて栄えた学問の地としてのイメージからは程遠いものがあります。中でも行人の ひとりが語った’一本でも多くの矢を作る事が徳を積む事’と言う言葉は印象的です。現世にこそ浄土が存在するとする覚鑁上人の考えが何か別の姿を借りて現われたようで不思議なつながりを感じさせます。一方宣教師側にしてみれば、彼らが本国で嫌悪したあのプロテスタンティズムを遥かアジアの辺境の地で耳にするなどとは夢にも思ってみなかった事でしょう。(プロテスタンティズムとは中世キリスト教の宗教改革の原動力になった考えで、個人の信仰の証を世俗の行為、つまり経済行為などで代替する事が可能であるとする考え方)

 そして転機が訪れます。 小牧・長久手の戦いで家康と秀吉との間で和議が成立した際、家康側についた根来に討伐の軍勢が送られます。八千とも一万とも言われた行人達は秀吉の差し向けた軍勢が到着する頃に主だった者はほぼ完全にその姿を消し去っ ていたと伝えられています。この寺の終焉に長期の激しい攻防は必要でなかったのです。 いわゆる天正の兵火による寺の損壊は甚大で、現在発掘作業が進められていますが当時の隆盛を伝えるものは大 塔と大師堂のみです。大塔には当時の戦火によるものと思われる弾痕が残されています。 二つの繁栄を経て、根来寺は今それらの思い出に浸っているかのように静かななたたずまいを見せています。冒頭の’忍者’は関ヶ原の戦いに勝利した後に家康に復権を認められた一部の行人集団だったのです。我々は激動の時代にあって逞しく生き抜いていった学侶や僧兵達を驚きをもって思い起さなければなりません。しかしながら彼らを さらにその根底から支え続けた人々がいた事について何ひとつ知る手だてを持ってはいないのです。 (林芳文)

 


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