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武士にとって寺とはなんだったのか

 武士と寺の関係は古く、昨日今日に始まったことではありません。武士と寺とは実は切り離そうとしても切り離せない運命的な関係を武士の誕生のときから持っているのです。
  死んだら、お寺に葬られる−そういう場所として武士とお寺の関係を理解していると、決して長い武士たちの歴史の根幹を理解することはできませんし、長く続いた封建時代に果たしてきたお寺の存在の役割もわからないだろうと思います。
  武士とお寺の関係を理解するうえで、念頭に入れておかなければならないことがあります。
 まず最初に、中世までの人々が常識として抱いていた自然観、宇宙観というものを理解していくことです。その自然観、世界観の中心に宗教的世界が存在していたということです。現代の私たちの世界観とはかなり違います。(右側へ)

 

 もうひとつは、武士と死という問題です。これは現代の私たちとは全く次元の違うレベルで、死の問題がお寺とその根底にある仏教的世界に求められていたということです。 死という問題は、現実的世界での個人的体験などに依存しますので、『死』から遠く隔離されている現代の私たちには、中世の人々が実感としてもっていた『死』というものを理解することなど難しいかもしれません。しかし中世の人々、特に武士たちが直面していた『死』を想像することなしには、この問題は理解することはできません。
 最後の問題−それは、日本の歴史全体を貫いている問題でもありますが−土地制度とお寺そして武士団との関係を念頭に入れなければならないということです。簡単に言えば
荘園制度を理解することと言っても過言ではないと思います。
 追って具体的に見ていきたいと思います。

楽音寺
 楽音寺は、この地方の郡司であった沼田氏の氏寺として建立され、沼田氏が平家に味方し、源平合戦で滅びた後は、この地に地頭として入部した小早川氏によってその氏寺として保護されてきた。
沼田氏は、この地の荘園を京都の 蓮華王院に寄進して、実質的な支配権を握っていた。
沼田氏の跡を継いだ小早川茂平はこの寺を小早川氏の氏寺とし、荘園経営に利用していった。

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