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高杉晋作家のルーツ

広島県三次市に高杉という地名のところがあるが、これはその昔この地に高杉城という城があっことに由来している。高杉城は、戦国時代この地方を支配していた領主江田氏の配下にあった祝(はふり)氏の城跡ということになっている。この城は毛利元就によって落とされている。城跡近くには戦死した城主祝氏や家臣の墓がある。
この高杉城が高杉晋作のルーツであるらしきことは、司馬遼太郎氏などによって指摘されているので世間によく知られるところとなっている。
 しかし問題は、なぜ祝(はふり)氏が高杉氏なのかということだ。
ところで広島県吉田町に高杉山城という城跡がある。この城の城主は高杉氏である。そして興味深いことに、この城跡には高杉晋作の子孫の方が建立した『高杉晋作第十三代目』の碑がある。建立した日付は昭和十年九月一日となっている。建立した人物は東京の高杉英男氏である。



 現在この城跡は、高杉氏の敷地となっているようで、何の史跡の指定も受けていない。
 私は、幸運にも両方の城跡を高杉晋作の末裔の方に案内していただき、高杉晋作についての話を聞かせていただいた。
 現在三次の方は、高杉ではなく武田氏を名乗っておられる。話によると、高杉氏はもともとは安芸の守護武田氏の家臣であったので、姓を武田に変えたと言うことである。三次の方は、司馬遼太郎氏の言及によってか、かなり有名で地元の中国新聞社の取材も受けていて、その記事を見せていただいた。
 一方の吉田の高杉氏の方は、地元では良く知られているようだが、これといって世間にはあまり周知されていないようである。時々私のような変わり者が訪ねてくることがあるとのことだった。 毛利輝元が関ヶ原に敗れ、毛利家臣が長州に移動しなければならなくなったとき、この城の城主高杉氏一族も、一部のものをこの地に残して行かなければならず(輝元の給地が120万石から40万石足らずに減給されたため)、泣く泣く別れを惜しんで、城跡にいまでも残っている竹を杖に遠き長州の地へ旅立って行ったと、代々先祖から聞かされてきたと語られた。
 
  現在のところ、とぢらの高杉城も高杉氏に関係していることは確かであるが、高杉晋作のルーツについては断定できるだけの資料がない。
ただ、高杉晋作のルーツを考えるポイントは、祝(はふり)ということにありそうである。祝というのは、もともとは神事に関わる職を意味していて、この職に代々関わっていた人々が祝(はふり)氏と呼ばれるようになったものと考えられる。吉田の高杉氏にも祝の文字がある。
三次の高杉城主が祝氏と呼ばれていたのは、職名をそのまま氏名として使用していた可能性がある。このような例はよくある。日本の氏族名の由来は、地名と職名にほとんどルーツがあるからだ。

 最後に私の推論。
高杉氏は、もともとは安芸の守護職武田氏の配下で何らかの神事に関わっていた一族だったものが、武田氏の衰退と滅亡の中で、周辺に散々していった。中には吉田郡山毛利氏の家臣として、中には備後江田氏の配下に下っていった。 しかも神事に関する職を司る一族として。 そして毛利輝元の長州転封によって一部のものがともに長州萩に移動していった。
 
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