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篤姫の実家、今和泉家とはどんな家柄?


2008年のNHK大河ドラマが決まっている《篤姫》は島津家の一門と呼ばれている
今泉家島津家に幕末動乱期の1835年に誕生。現在今泉家の屋敷跡は今泉小学校に様変わりしていて、当時の面影は校庭の一角に残る井戸跡、海岸近くに残されている石垣と松原くらいしかありません。
 ところで、今和泉家とは、どういう家柄なのでしょうか。
 島津氏には、島津氏一門という家柄があります。これは島津本家に跡取りがない場合、この一門筋から当主を出すという家柄です。加治木島津氏、重富島津氏、垂水島津氏、そして今和泉島津氏となります。この中でも加治木島津氏が家格が高く、島津本家から養子が入り、ここからまた本家当主も輩出した家柄で、特に25代当主島津重壕は11代将軍徳川家斉の岳父となり、島津家を他の外様大名とは一線を画する大名とすることになります。このことによって島津家と将軍家との特別な関係を作り出す事となったのは事実です。
 今和泉家は、23代当主であった島津豊継が、弟忠郷に長く絶えていた和泉家を再興させ、跡を継がせたことに始まります。

 和泉氏は、島津氏第4代忠宗の次男忠氏が薩摩出水の地を領して、出水氏と称したことに始まります。彼は島津氏の臣下からはみ出し、室町将軍の下に仕え、九州成敗職となり大宰府に留まります。本家島津氏は北朝方に組していましたが、懐良親王が九州入りすると、南朝方に組し第5代当主貞久と敵対することになります。しかし南朝方が敗退すると忠氏の子久親は豊後の地に流されます。しかし貞久の息子で第6代氏久の取り計らいで、久親は薩摩に呼び戻され、大隈志布志に居住させます。次の第8代久豊の代に、久親の息子和泉直久とその弟忠次は、島津久豊とともに川辺の平山城攻撃に出陣、しかし久豊の宿敵伊集院頼久の猛攻を受け、直久、弟忠次ともに討ち死にします。ここに和泉家は断絶します。
 
 その後320年ほども断絶していたものを、江戸時代中期に島津豊継が弟忠郷に和泉家を新たに《今和泉家》として再興させたのです。当初の家禄は現在の指宿郡の一部で3,500石余、後に佐多、伊佐、飯野、串良の飛び地を加増され、10,500石余の石高になります。







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