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豊後豊前の国と薩摩との不思議なつながり

 鹿児島県霧島市一帯に散在している地名と豊前豊後に見受けられる地名との類似性は もうすでに、この《薩摩紀行》のコーナーでも取り上げてありますが、その共通項となっているのは、1.ハヤト族 2.朝鮮経由の渡来系集団秦氏 この二点に絞り込まれると思います。

 錦江湾の最奥部に位置する国分平野一帯から霧島山系にかけて、8世紀初頭に秦氏系統住民の集団移住があったことは間違いなく、その事実に基づいて、《中津川》《犬飼》《桑原》《稲積》《韓国宇豆峰神社》《銅田》という地名が誕生していると思われます。しかし、この秦氏の移住とそれ以前からこの地に定住していたと思われる《ハヤト族》との関連性は今のところ明確に捉え切れていないのです。今後の課題としたいと思います。

 黒住秀雄氏などの研究では、そもそも宇佐とはハヤトのコロニーであったようですから、8世紀初頭における朝廷側による豊前豊後地方の住民の大隅への強制移住も、実は同じハヤトのつながりの中で行われていたと考えることもできるわけです。
 しかし、課題は、8世紀初頭に大隅に移住してきた秦氏系統住民は、朝鮮半島経由の集団であると思われるのに対して、ハヤトのルーツは中国江南地方であるという点、この別ルートの集団が大隅の地方でどのようにオーバラップしているのかという問題です。

 それに対する一つの考え方は、宇佐はハヤトのコロニーだった、そこへ後発組の移住者である朝鮮半島経由の人々が移住してきた。新たにやってきた朝鮮経由の人々が先住組みのハヤトを凌ぎ、ハヤトは新しい朝廷の下で支配下に組み込まれていく。後発組は、先発組のハヤトの資産を受けついでいく。そのようなコンテクストの中で、秦氏の大隅移住が行われてのではないのか。そう考えられるわけです。ここで、問題は、ハヤトの資産とは何か、それはハヤトの持っていた呪術、時の支配者に対する守護的意味合いではなく、きわめて経済的な問題、鉱物資源の確保だったのではないかと推測しているわけです。水銀、銅、鉄などの鉱物資源のありか、そういうノウハウを受け継いだのではないかと推測しているわけです。

 現在、豊前豊後と大隅との繋がりを髣髴させてくれる唯一の地名としては、霧島市にある《豊後迫》くらいでしょうか。この峠をなぜこのように呼んでいるのか。この峠に《豊後塚》という史跡がありますが、この史跡の説明案内では、島津氏の征伐に豊後の大友氏がこの地域まで攻めてきたというような説明になっていますが、このような事実は確認できないわけですから、接点は養老年間の豊前豊後地方からの移住者の史実以外には考えられないわけです。
 
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