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月照 入水の地


鹿児島市の中心部から島津氏の別邸《仙厳園(磯庭園)》を過ぎて、国道10号線を国分方面に5分くらい運転すると、左手に写真の史跡が見えます。
 西郷隆盛と共に錦江湾に入水したことで歴史に名を残すことになった《月照》を弔う史跡です。


史跡の碑文は《近衛文麿》の手になるものです。これは、月照が近衛家と密接な関係の中で幕末の活動をしていたことを物語るものでもあります。
 月照はもともと清水寺成就院に住持する一祈祷僧です。その彼が幕末の動乱に巻き込まれていったのは、ひとえに彼が成就院に身をおいていたからです。
 


清水寺を統括支配しているのが興福寺です。興福寺とは、藤原氏すなわち近衛家の祈願寺です。
 幕末当時の勤皇運動家であった近衛忠熙とのつながりが指摘されていますが、月照は好むと込まざるとに関わらず勤皇運動家たちとの関係に巻き込まれていきます。

  島津氏と近衛家との繋がりは、端的に言えば、島津氏の発祥が近衛家の藩屏という形から興ってきたのだと類推していますが、島津氏の参勤交代の折には成就院などを介して京都を通過する際接触する慣例があったようです。成就院は、薩摩と近衛家とのパイプ役を果たしていたようです。そのような文脈の中で、斉彬の下で外交的雑事に奔走していた西郷隆盛との接触が始まったもの当然と言えます。
 安政の大獄が始まり、京都守護代酒井忠義が赴任してくると、京都では勤皇運動に関わったものが次々と捕縛され始めます。月照の身に危険が及ぶのを危惧した近衛忠熙が西郷にその護衛を託し、西郷は薩摩に連れて行きます。
 しかし当時、主君斉彬亡き後で、斉彬の父で先代の藩主斉興が藩政の実権を再び握り、斉彬の進めた改革を悉くつぶしていました。西郷は月照が薩摩に入るまでに、何とか彼を受け入れるよう根回しを試みますが、藩内の空気は幕府から睨まれることを恐れ、月照を日向口から追放することに決まります。
 当時、薩摩から他国に出入りする関所は、薩摩路の野間関、大口の小川内関、日向高岡の去川関の3つがあり、《薩摩飛脚》という言葉に表現されるように、一度入れば生きては出られない、という意味ですが、近郷の郷士たちが集まってきては、関を出ようとするものをなぶり殺しにする習慣があったと伝えられています。したがって、月照の日向口追放とは、つまり《死》を意味していたわけで、西郷は月照城下立退きを命じた藩命が届いた11月15日の夜、月明るい錦江湾に供に入水します。それが自分を信頼し薩摩路までついてきてくれた月照に対する西郷ができる、せめてもの義であったのでしょう。
 しかし運命とは、残酷なもので、月照だけが死して、西郷は助けられ蘇生します。その西郷隆盛蘇生の宿はこの史跡の近くに残されています。

ときに月照46歳。辞世の句は次のようなものです。


 大君のためには何かをしからん
   薩摩の追門(セト)に身は沈むとも

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