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熊襲の洞窟と隼人塚


隼人族とクマソ族とが同じ部族か異なる部族かは定かではありません。隼人族はクマソ族が中央政権に組み込まれた後の呼称だという説もあります。またクマソ族は大陸系の高麗系、白人系、隼人族は南方系の部族だと言う説もあります。いずれにしろこの部族についてはまだ多くの謎が残されています。クマソ族についての文献的な資料もなく、神話的な世界の中に放置されているようです。一方隼人族については、「記紀」の中に登場してくるので、日本史の教科書でも登場します。つまり720年、朝廷に対して大規模な反乱を起こします。朝廷から大伴旅人を大将とする軍が派遣され鎮圧されます。隼人塚はそのとき斬首された隼人族の首塚として言い伝えられてきました。隼人族は、それ以前の早い段階から神武天皇の東征説の説話の中に登場してくるように、天皇家との繋がりが深い一族で、近衛としていち早く朝廷に組み込まれていきますが、大隅の隼人は中央政府に最後まで抵抗します。この隼人塚、実は隼人族の人々の墓ではなく、実はその逆で朝廷側の関係者の供養塔あたりではないかと主張する人もいます。
 隼人塚は隼人駅の近くに、クマソ穴は妙見温泉群の山の中にあります。クマソに関する史跡は、このクマソ穴くらいしか現在はないようです。あと地名にその痕跡が残されているだけです。この地域は、現在の行政区では姶良郡隼人町、国分市と呼ばれていますが、江戸時代以前は桑原郡、明治時代から昭和初期にかけては、西襲山村、東襲山村とも呼ばれていて、熊襲の「襲」が使われていました。また現在でも大隅地方には「曽於郡」がありますし、熊本県にかけては、「球磨」の地名も関係があるのではといわれています。

現在、熊襲穴と呼ばれるものは、この洞窟だけが知られていますが、実はこの近くに、もともと熊襲穴と呼ばれてきたものが、妙見川沿いにあると、このあたりの古老の話。場所は教えてもらいましたので、そのうち機会があれば洞窟探しに挑戦してみたいと思います。
昔からの伝承を受け継いできた人々がなくなっていくと伴に、歴史はますます一部の姿しか残さなくなるわけです。伝承を受け継ぐことのいかに大切なことかの一例でもあります。

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