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島津氏より古い、肝付氏の家系



 大隅の豪族肝付氏は、大伴旅人の子孫と伝えられています。大伴旅人と大隅との関係は、720年に大隅の隼人が大規模な反乱を起こしたとき、その鎮圧軍の将軍として派遣されたのが大伴旅人です。このとき大伴氏と大隅との遭遇が始まります。旅人から数えて9代目の伴兼行が弁財使となって薩摩に下向したとされ、それから4代目の兼俊が日向国島津荘の荘官として肝付郡高山郷に移住し土着していったことになっています。
 肝付氏で、押さえておかなければならない武将としては、8代目の肝付兼重、13代目の肝付兼続です。
 8代の兼重は、南北朝の動乱の時、南九州での有力な南朝方武将として奮戦している武将です。そして13代目の兼続は、島津忠良(日新斎)の娘阿南を正室とし、島津氏との長年のライバル関係を収束させるものの、最終的には島津忠良の三州統一の前にあっけなく島津氏に破れ、長く続いた肝付氏を滅亡へ導くことになった悲運の武将です。
 兼続には、先妻に良兼という嫡男がいたにも関わらず、島津忠良の娘《阿南》を後妻として迎えたようです。典型的な政略結婚です。後に肝付氏と島津氏は大隅の覇権をかけて最後の決戦に突入しますが、兼続が志布志に隠居した後、嫡男の良兼が高山城を守り、奮戦しますが、1566年島津氏一族で重臣の伊集院忠棟の軍によって高山城を囲まれ、落城。良兼父子は父兼続の居る志布志を目指して落ちていきますが、途中東串良で忠棟の軍に囲まれ、父子ともに殺されます。その後を継いだ弟の兼亮も奮戦しますが、阿南は兼亮が伊東氏に心を寄せて、反島津氏の姿勢だとして廃嫡し、兼道に家督を譲らせます。兼道は阿南の子だったようです。島津氏は兼道に高山だけに所領を限定し、さらに薩摩半島に移動させて、完全に大隅の地から肝付氏を排除します。兼道は野津に兼護と改名し、関が原にて戦死しています。ここに肝付氏600年の歴史に幕が降ります。幕引きは、島津忠良とその娘《阿南》との共同作業だったような気がします。
 一方、12代兼忠の三男兼光の子孫は、一時期島津氏の一族伊集院氏が家系に入り込んできますが、再度加治木肝付氏の家系が復活して、加治木そして喜入と移りながらも江戸時代を生き残ります。

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