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生麦事件の真相

  生麦事件とは、幕政改革のため江戸に来ていた島津久光一行の行列が、川崎を過ぎたあたりの生麦村という所で、英国人一行に対して無礼打ちを実行し、うち一人を殺傷させた事件のことです。1862年8月21日午後2時過ぎ頃のことです。
 この事件が引きがねとなり、翌1863年6月下旬に鹿児島錦江湾に英国艦隊の七隻が現れ、薩摩との間に戦闘が始まります。俗に言う《薩英戦争》です。

 ところで、生麦事件の顛末を記しておきますと、英国人一行は4人。リチャードソン、クラーク、マーシャル、そして女性のボラディル夫人のマーガレットの4人。このうち現場でとどめを刺されたのが28歳のリチャードソン。クラークは右肩を切られ重症。マーシャルも数箇所を切られます。マーガレットは幸いにも薩摩のサムライたちの刀に触れることなく、横浜の外国人街に逃げ込みます。
 このとき真っ先にリチャードソンめがけて切りつけてきたのは、奈良原喜左衛門と言うことになっています。しかしこの下手人も当の奈良原家では喜左衛門の弟の喜八郎であるという言い伝えになっているようです。
 大名行列に遭遇したときの礼儀をこのイギリス人たちは知らなかったようですし、また条約により東海道川崎までは外国人の通行を公に認めていたようですから、イギリス人から言わせれば、公道での当然の権利を行使しているわけで、彼らが薩摩の行列と遭遇したときも、下馬するというほどの意識はなかったと思います。東海道という《公の空間》をイギリス側にも大名にも認めていた幕府側の曖昧さが引き起こした事件とも言えます。
 ところで、島津久光の一行は、実のところは江戸からの帰路は直前にイギリスから購入した蒸気船で帰る予定だったのです。それを、幕閣たちの嫌がらせというか横槍が入り、帰路は陸路と指図されます。島津久光は江戸での滞在中小松帯刀に指示してイギリスのマセソン商会から蒸気船フィリア・クロス号(永平丸 440トン)を購入しています。久光はこの最新の蒸気船で帰ろうと考えていたようです。これだと薩摩までわずか二日あまりの行程になります。この蒸気船の購入から支払いの際まで幕閣たちが口出しし、久光はかなり幕府に対して怒りをもっていたと、この蒸気船購入の商談に立ち会った、ホワイトというイギリス人の証言があります。このホワイトたちの間では、生麦事件は島津久光の幕府を巻き込もうとした陰謀だという噂が当時ささやかれていたようです。
 たしかに単なる偶発事件であつたとしても、奈良原喜左衛門が無礼打ちで最初に切りつけた後リチャードソンはしばらく馬に乗ったまま走り、それから落馬したとされています。そこへ薩摩の一団が追いかけてきて、海江田信義が首をはねたとされていますが、そのさいに、海江田らの行動には久光の許可があったはずです。そもそも奈良原喜左衛門の行動そのものも、籠の中からのゴーサインがあって初めて行動に移したと思われます。久光はリチャードソンを助けようなどとは露ほども考えていなかったし、積極的に首を切らせたように感じます。イギリス側からの加害者引渡しの催促にも応じないどころか、奈良原喜左衛門や海江田信義などイギリス艦隊への斬り込み隊として積極的に動いています。奈良原喜左衛門や海江田信義をイギリス側に引き渡さないということこそが、薩摩藩の意思イコール藩主の意思であり、それは彼らの単なる判断でイギリス人を切ったのではなく、籠の中からの久光のゴーサインがあったことを濃厚に裏付けていると考えられます。
 攘夷など不可能と認識していた島津久光は、当時イギリスの商人たちの間では蒸気船を購入していた上得意の顧客であったのです。生麦事件から薩英戦争が開始される間にも、イギリスから薩摩は蒸気船三隻を購入しています。これほどイギリスとの貿易に恩恵を感じている久光ですから、イギリス人を狙い撃ちしたとは考えられず、嫌がらせを受けた幕府を外国とのトラブルに巻き込む作戦だったのかもしれません。そこへ偶然イギリス人と遭遇してしまった。久光は、幕府の神奈川奉行阿部正外が加害者を差し出し、程が谷の宿場でしばらく逗留し幕府の沙汰を待つようにとの指示も無視、足軽岡野新助なるものの仕業で、岡野は外人を追ってそのまま行方をくらましたと幕府をバカにしたような答弁をして、そのまま京都へ向けて列を進めます。また薩摩にイギリスの商人に来るように薦め、幕府など何するものぞという気概を示しているのです。このように、当時の幕府にたいして薩摩は徹底的になめきっていましたから、江戸からの帰り、幕閣たちの嫌がらせに対して、あだを返したかったのもあながち否定はできません。
 それにしても、一方ではイギリス人を殺しておいて、一方では、蒸気船を次々に注文するなどイギリスとの取引もするという、人を食ったようなやり方を平然とできる当時の薩摩人にはある意味感心します。しかし、イギリス側は、まだそのような薩摩のしたたかさを知らないでいました。中国でやつたように砲艦外交で威嚇すれば、言うことを聞くだろうというくらいの認識しかもっていなかったようです。その証拠に翌1863年6月下旬に錦江湾にイギリス艦隊が入港してきたとき、旗艦ユーリアラス号の甲板には、幕府から納められた賠償金28万両の千両箱が弾薬庫の前に積み重ねられていたのです。そのため砲撃を開始するまで二時間も手間取ってしまっています。そもそも砲撃することもないだろうとイギリス側も薩摩を甘く見ていたからです。


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