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篤姫輿入れから倒幕へと時代を動かした西郷隆盛

写真は、西郷隆盛が最後にたてこもり自害した城山を背景に立つ、西郷隆盛の銅像。鹿児島の人々の精神的なシンボルとして今尚大きい。戦時中の金属不足から照国神社の銅像はじめ金属類はすべて供出したものの、この西郷の銅像だけは第二次大戦の困窮の中でも、薩摩人は軍に供出しなかったのです。その伝統は消えることなく、学校教育を通じて、また様々な機会を通じて、現在の鹿児島の人々の精神的な核として植え込まれ続けています。それは一言で言えば、郷土鹿児島(薩摩)への異常とも言えるほどの郷土意識だと言えます。そしてその風土的伝統とは、地形的にも隔絶し続けてきた薩摩の閉鎖的環境が生み出してきた過剰な郷土意識とその裏返しとしての他の世界への視点の欠如という、言葉の真の意味での《conservative》なのだろうと考えています。薩摩の伝統とは一言で言えばこの《conservative》なのだろうと理解できるので、したがってなおさら、島津斉彬という君主の存在は《異常性》という一言に尽きるだろうと思うわけです。その尋常ではない存在が、あの時代の保守的な幕府、朝廷を突き動かす原動力になったと理解できるのです。西郷隆盛は、その尋常ではない神かがり的な精神を島津斉彬という封建領主に接することで受けた、キリスト教的に言えば、《啓示》を受けることになり、時代の精神を具現化していくことになったと、私は理解しているのです。それが私の西郷隆盛への理解の仕方なのです。
 
 対して、政治家としてのキャリアを積んでった大久保利通が明治政府の人材リクルートに際して、西郷が郷土の薩摩人を次々に東京へ送り込んでいったのに対して、あまり薩摩人に拘らず、人物本位であったのとは対照的です。そのためか、地元鹿児島では、西郷に対する人気に対して、大久保利通の人気は今一歩です。むしろ竹馬の友西郷を死に追いやった政敵としてのイメージを鹿児島の人々は持っているようです。

 ところで、私が西郷隆盛のことを知るのは、小学校5年ごろのことで、それ以来頭の片隅に西郷隆盛は存在し続けてきたわけです。そして私が《敬天愛人》という言葉を意識するようになったのは、私の尊敬する作家観音寺潮五郎氏の講演を聞いたときでした。それは私が高校時代の時です。そのときは観音寺潮五郎氏のことなど知らず(失礼)、その後《敬天愛人》という言葉は私の記憶から消去されていました。そしてそれから数十年、今あらためて西郷隆盛の歴史的意味、彼の想いなどに惹かれているのです。彼の生まれ育ったここ鹿児島で。
 NHK大河ドラマの中で演じられている西郷隆盛はいい味出していると思いますが、なぜ西郷が討幕運動の動きの中で、島津斉彬亡き後も歴史の表舞台に出で来るのか、西郷隆盛の存在の大きさがどう描かれるのか興味があります。
 唐突ですが、島津斉彬が西郷隆盛に目をつけたのは、彼の意見書を通じて西郷の才能を見抜いたからだといわれていますが、もうひとつ、西郷が島津斉彬の庭方(端的に言えばスパイ)として抜擢されたのは、彼の身分が低い士分だったからだと考えています。スパイですから、いざとなれば命を落とすときがあります。その時家格の高いものでは、家が絶えることになり問題です。西郷は、切れる頭脳と、いつでも犠牲になれる家柄(つまり捨て駒)という二つのものを兼ね備えていたと考えることができます。西郷ファンには申し訳ないことですが。
  そして、その島津斉彬がいなくなって、月照との入水事件後、彼を取り立ててくれる主人はなく、彼は命だけは助けられて、奄美大島に配流になります。
 彼が奄美に配流になり、命だけは助けられた背景は、大河ドラマの中でも薩摩藩の老女小の島が幾島に報告させている場面で簡単に述べられています。それを敷衍して言えば、西郷隆盛は、当時の薩摩の《精忠組》と呼ばれる若手のサムライたちの間では兄貴分的存在で、島津斉彬―西郷隆盛―精忠組シンパという構図があつたのです。そしてこのような構図を可能にしたものは、《郷中教育》という薩摩藩独自の教育システムにありました。
 
 西郷隆盛が青少年のサムライたち(二才どん=にせどん)に人気があり、頭目的存在として目されるようになったのは、彼の包容力という性格が大きく、その包容力を示す事件が西郷が少年の頃起こります。彼が少年の頃、輪読会からの帰り、彼を快く思わない連中からつけられ、けんかになります。江戸時代の侍の心得として刀は抜いたら最後、それは死を意味していました。侮辱を浴びたら刀を抜かねばならず、相手を殺したら切腹せねばならず、いずれにしろ刀を抜くということは死を意味していたわけです。ところで、よくある少年同士のけんかに巻き込まれた西郷は、激昂した相手が鞘から抜いた刀によって腕を切られます。青ざめた相手は直ちに現場を立ち去り、残された西郷の腕からは血が滴っていたそうです。帰ってきた西郷は問い詰められても自分で怪我をしたと取り繕い、けんか仲間をかばいます。その噂は瞬く間に《郷中》に広がり、西郷が一目置かれ始められるきっかけを作ったといえます。西郷の腕はその怪我が元で剣さばきがうまくできなくなり、爾来文で身を立てていくことになったと言われています。この事件で、武の国薩摩で、文に明るくなった西郷が形成されたと言っていいと思います。そしてそんな西郷を見出したのが島津斉彬ということでしょう。

  西郷がたんに島津斉彬だけに見込まれた人物だったら、奄美大島に流され、そのまま歴史に登場してくることはなかったかもしれません。彼が再び歴史の表舞台に登場することができたのは、《郷中教育》を通じて城下の若きサムライたちの頭目的存在になっていたからです。若きサムライたちの中は尊皇攘夷という当時のムード思想に染まっていて、過激な動きを志向していきます。それらを《精忠組》と呼んでいます。大久保利通もこの《精忠組》のメンバーでした。
 しかし大久保は単純な思考しかできない精忠組メンバーではなく、権力を巧みに利用することを通じて、自分の野心を実現していく思考を持っていました。大久保はこの精忠組という薩摩藩内の過激派グループを大いに利用しながら、権力へ近づいていくことになります。 


 西郷が奄美から呼び返されるのは、島津久光が薩摩軍を率いて京都に上洛し、ひいては勅命を頂いて江戸にのぼり幕政改革を実行することになったからです。それが島津斉彬の志であると島津久光は考えていたからです。その時、京都、江戸事情に明るい西郷の力がどうしても必要ということで、大久保の推薦で本土に呼び戻されることになったわけです。1862年のことです。
 しかし西郷隆盛の運命は、再び座礁します。西郷は下関で待機するようにという久光の命を無視して京都の過激攘夷派グループを説得しようと独断で京都に上り、久光の逆鱗に触れます。このときも沖永良部遠島に済んだのも、大久保のとりなしもあったでしょうが、薩摩藩における下級武士たち若手のホープとして西郷が目され、この時すでに彼ら若手の武士たちなしには薩摩藩は動きが取れない状況下にあっからです。幕閣と同じで上層部は保守層ですから、新しい動きは取れません。久光の野心をかなえてくれるのは、この若手の武士たちであり、その若手から西郷はリーダー的存在として目されていたわけで、西郷が好きでない久光であっても、西郷に対して手荒なまねはできなかったわけです。
 

 西郷隆盛はこの南海の島での静かな読書と思索の日々を経て、彼の内面的な世界を充実させたと思われます。このときの思索の日々がなければ、西南戦争で自害していく彼の美学はなかったかも知れません。
 南海の島から西郷を再び日本の歴史舞台に引っ張りだすことになる時がきます。
  島津久光や大久保利通が推進していた《公武合体》路線は、1864年1月に《参与会議》という形で実現します。朝廷と幕府に加え、雄藩の諸侯を加えた公武合体のひとつの帰結であった《参与会議》はしかしわずか3ヶ月で崩壊。ここで薩摩は、攘夷派になれず、幕府派にもなれず、要するに立つ瀬がなくなります。島津斉彬の政策を実現したはずの公武合体策が暗礁に乗り上げ、薩摩藩としては、その後の活路が見出せなくなったのです。もはや幕府を倒すしか、薩摩藩の生き残る道はなくなりつつありました。薩摩藩は幕府からそこまで追い詰められていたのです。薩摩藩で求心力を失いつつあった久光は、下級武士たちを中心とする西郷への期待を無視することできず、ついに西郷召還を許可します。
 
 かくして西郷は薩摩本土の土を踏むことになります。1864年2月のことです。京都に入った西郷に後事を託し、大久保と久光は中央政権から離脱し、薩摩に帰り、次の準備に入ります。それは、いざというときの軍事力の強化とそれを支える殖産興業政策です。明治の富国強兵策、殖産興業政策は、このとき薩摩藩が藩として実行していたものを全国レベルに拡大したものに過ぎません。五代友厚を中心として、人材のイギリス派遣、海外貿易の推進、近代的艦隊の整備、新式銃の開発、鉱山開発、技術者の招聘など明治国家が実施したことは、ほぼこの頃薩摩藩で実行されているわけです。

  本土に召還された西郷は薩摩にのんびり滞在する暇もなく、京都に召しだされ久光から京都の警護責任者としての軍賦役を命じられます。この新しい役職が西郷をして、軍事的リーダーとして彼を押し上げていくことになります。
 しばらく京都の情勢を傍観していた薩摩ですが、そんな折1864年8月長州藩による京都奪回作戦である《禁門の変》が起こります。これは1863年のいわゆる文久の政変により京都から放逐された長州藩が藩の面子をかけて京都での勢力回復を企図した軍事行動です。この時薩摩の軍を指揮していた西郷隆盛の巧みな采配で長州軍を敗退させたことで、西郷の軍事指揮官としての評価が、後の第一次長州征伐の際、彼が参謀に任じられる伏線となります。そしてこの第一次長州征伐の際、彼のとった長州人による長州征伐という巧みな戦略によって、ますます西郷の軍人としての評価は不動のものとなっていきます。

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