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島津氏 九州制覇目前までの合戦マップ


《解説》

・1554年 岩剣合戦
 薩摩半島統一に向けて北上する島津氏の前に立ちはだかる第一の関門―それは薩摩半島に割拠する豪族連合。渋谷氏、蒲生氏、加治木の肝付氏など。渋谷氏、蒲生氏の岩剣城を落とし、薩摩半島の付け根の関門を突破。この合戦、加世田に隠居していた島津忠良まで出陣するなど島津氏総力を上げての戦い。義弘、義久の初陣でもあった。また鉄砲が盛んに使用され、鉄砲が重要な役割を担った合戦の端緒でもあった。

・1561年 廻城合戦
 大隅半島の有力豪族肝付氏が、大隅半島の付け根にある廻城を押さえに来たことにたいして、島津氏が脅威を感じ、即効反撃にでる。ここを肝付氏に抑えられると島津忠将の支配する国分が脅かされ、薩摩半島統一戦どころではなくなる。この戦いで、肝付氏の陽動作戦に掛かり、島津貴久の弟島津忠将が戦死するなど島津氏にとっては手痛い合戦ではあったものの、かろうじて肝付氏を撃退。これより以降肝付氏の勢力は急激に下降。数年後には、島津氏より古い家系を誇った大隅の豪族も島津氏の手中に落ちる。最終的に肝付氏が島津氏の家臣化していくのは1574年以降。

・ 1569年 菱刈合戦
 薩摩半島を北上する島津氏にとって最後の薩摩半島の豪族が菱刈氏。菱刈隆秋は甥の鶴千代を擁して、大口城、馬越城にこもり、球磨の相良氏と連携し徹底的に島津氏に抗戦。まるまる2年ほども持ちこたえたものの、ついに大口城が落とされ、菱刈隆秋は球磨へ敗走。ここに北薩の雄菱刈氏もついに島津氏に下り、形勢をみてとった他の諸豪族も島津氏に下り、ここに事実上薩摩半島の統一が完成。

・1572年 木崎原合戦
 薩摩半島、大隈半島の脅威を取り除いた島津氏の前には、日向の大名伊東義祐がいた。伊東氏最盛期の当主である。島津氏の次の大敵がこの伊東氏であった。しかしその伊東氏、あっけなく島津氏の寡兵の前に敗れる。これが《九州の桶狭間》といわれ続けてきた木崎原合戦である。約5千の伊東軍を島津義弘率いる約3百から5百の兵で急襲して敗走させたと言われているが、実はこの戦いで最大の働きをしたのは、この周辺一体に生息していた山伏、僧兵など寺院勢力である。そもそもこの戦いの作戦そのものが、ゲリラ戦法で、はじめから伊東氏をおびき出したのでないかと思われる。大口の新納忠元ら援軍が駆けつける前に決着はついていた。

・1578年 耳川合戦(高城合戦)
 この戦いは、木崎原合戦で負けた伊東氏が、島津氏に攻勢をかけられ、ついに伊東義祐が都於郡城を落とされ、本拠佐土原城から豊後の大友宗麟を頼って落ち延びたことに始まる。大友宗麟は伊東氏を支援する形で、日向攻めを敢行したものの、高城で島津氏と対峙し、結局は島津氏に敗退。挙句の果てには、美々津の耳川付近まで追撃され、惨敗に終わる。この敗戦で大友宗麟の戦国大名としての地位は地に落ち、余生は宗教に生きることになる。

・1584年 沖田畷合戦
 この合戦、島原の有馬晴信救援のために、島津氏が加勢に駆けつけた戦い。有馬軍約5千、島津援軍約3000と言われている。対する竜造寺隆信の軍は3万から6万とまちまち。
 この戦も、島津氏独特のおとり作戦によって、敵の大将竜造寺隆信の首をとるという、島津氏の見事な作戦勝ち。この合戦によって、竜造寺氏の衰退は決定的なり、鍋島氏の登場を用意することになる。一方島津氏は、筑前を押さえ、いよいよ筑後へ進出していくことになる。

・1586年 岩屋城攻防戦
 大友氏の有力武将高橋招運守る岩屋城の攻撃に、さすがの島津氏も手間取り、この時間ロスが、島津氏の九州制覇を夢のものとすることになる。その間に大阪を発った秀吉の軍が九州に近づいていた。約700の軍勢で立てこもっていた高橋招運以下は、全員玉砕。島津義久は、筑前から兵を撤退し、豊後攻略へ掛かっていくが、その隙に高橋招運の息子であった立花統虎(後の立花宗茂)に岩屋城を取り返される。

・1586年 戸次川合戦
 筑前から豊後方面へと進撃してくる島津氏の前に豊後の大友宗麟はなす術がなく、豊臣秀吉の力にすがるしかなかった。秀吉は宗麟の依頼にこたえる形で、九州島津氏征伐に乗り出す。この戦いは、その秀吉の九州征伐の前哨戦。秀吉は、まずは四国勢を投入し、島津氏の出方を伺う。派遣された四国勢は、仙石秀久を軍監に讃岐の十河存保、それに土佐の長宗我部元親、信親父子率いる混成部隊。この戦いも、島時家久の作戦の前に、四国勢は術中に嵌り敗戦。十河存保と長宗我部信親が討取られるという悲惨な結末に。信親の戦死により
長宗我部元親の有力な後継者がなくなり、後の長宗我部氏の衰退の始まりにもなった。
 しかし、島津氏の九州北上戦は、この戦いを境に、確実に秀吉の軍の前に後退せざるを得なくなった。

・1587年 白根坂の戦い
 九州に上陸した豊臣秀吉軍は、二手に分かれる。秀吉本隊が筑後、肥後経由で薩摩へ、秀長率いる軍は、豊後から日向へ。島津義久は最後の秀吉軍との最後の決戦を、日向高城に。白根坂とは、高城から薩摩方面に数キロ先にある高台。ここに秀長軍の将宮部潤継が柵を築き島津軍を迎え撃つ。島津義久は薩摩の精鋭約2万を引きつれ、決戦を挑む。島津氏独特の突撃体制で、打たれても打たれても突撃。しかし柵はついに破ることは出来ず、義久は兵を引き、秀吉に降伏することを決心。ここに島津氏の九州制覇の夢はついに潰える。




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