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島津久光


島津久光は1817年島津家代27代当主島津斉興の五男として鶴丸城内にて誕生。生母は江戸の町民の娘と言われているお由羅です。これが後のお家騒動《お由羅》に発展していくきっかけとなります。
 当時の慣例として、跡継ぎの見込み亡き息子たちの行く末は、兄に生涯食べさせていただく肩身の狭い部屋住まいか、運がよければ、どこかの名のある家に養子に入り込むことでした。久光も例外ではなく、慣例にしたがって、名門種子島家に養子に入りますが、兄の死亡によって島津家に戻ります。そのときに婿養子となって入ったのが、島津家一門の重富島津家になります。重富島津家とは、別名越前島津氏という家柄で、200年間途絶えていたものを江戸時代1713年に再興された家系になります。久光の運命は島津家に戻ってきたたことで、大きく変わります。
 兄島津斉彬久が活躍しているとき、久光は重富島津家の当主として兄斉彬の対抗馬として、反斉彬派の家臣たちに担がれ、斉興の次の藩主をめぐるお家騒動に発展していきます。 これがいわゆる《お由羅》と呼ばれるものです。しかし、このような事件がありながらも、久光に対する兄斉彬の評価は揺るぐことなく、斉彬臨終での久光への遺言となります。当時の薩摩で、まともに時代を見極められる能力の持ち主は、家臣どものなかにはおらず、久光の見識はそういう中で高く買っていたようです。制度疲労していた封建制度の官僚たちであった上級武士たちは、いつの時代のエスタブリッシュメントにも見られるように、アンシャンレジームの墨守しか頭にないような状態だったのでしょう。久光は江戸生まれで江戸でエリート教育を受けてきた兄斉彬とは違って、薩摩という田舎で生まれ育った身ながら、薩摩の伝統であった薩南学派の影響を受けて国学には精通していたようです。これは彼の後年の統幕運動の推進力となります。兄斉彬の意思を受けつぐ形での統幕運動と理解してたようですが、彼の頭には、新しい時代を見据えたフレームワークはなく、ただ勤皇という一途な思想だけが彼を突き動かしていたと考えられます。

 とにかく、運がなければ、島津一門家の当主として平凡な人生を歩んでいこうとしていた久光を日本の歴史に登場させることになるのは、兄斉彬の急死です。斉彬の遺言によって久光の嫡男久茂(後の島津忠義)が次の藩主になり、久光はその後見人として事実上、薩摩藩の実権を握り、幕末の歴史に登場していくことになります。
 その島津久光の名を世に知らしめることになった事件が、1862年の寺田屋事件です。これは、薩摩の尊王急進派が久光の派遣した同士たちに鎮撫された事件のことで、有馬新七以下精忠組過激派が抹殺されます。同じ薩摩藩内のものでも久光の意向に反するものは抹殺する覚悟であることを内外に宣言したような事件で、この事件によって、朝廷に対する島津久光の覚悟の程が知れ渡り、これ以降京の護衛を任され
、京都に大規模な兵力を駐屯させておく大義名分を与えられるこになります。
  話は前後しますが、1862年3月、久光は、薩摩の精兵約一千ほど従えて京に上洛します。これは、桜田門外の変で大老井伊直弼を失った幕府の権威は地に落ち、もはや幕府では日本は持ちこたえられないと当時の人々は感じていたので、幕府の政治力に権威を持たせるために考えられていた《公武合体》を実現するために、薩摩が独自の行動に出ることになります。薩摩の伝統的な思想は、武力に対する妄信的な考え方で、太平な江戸時代にあっても、武力維持は他藩とはまったく異なる次元で維持されており、この武力を背景に公武合体を推進していこうとしたところに、薩摩藩独自の動きがあります。かくして武力を背景に、幕政に物申そうと、久光は無位無官の身分でありながら、藩主忠義の参勤延期の御礼を名目に東上することになります。いくら一国の実権を掌握しているとはいえ、無位無官のサムライが兵を引き連れ、上洛し、果ては幕政に物申すという前代未聞のことをやろうというのですから、久光という人もかなり肝っ玉の据わった人だったのでしょう。この上洛の時、大島から召還された西郷隆盛が、久光を目の前にして《殿はジコロ(田舎もの)だからこのたびのことは成功するはずがない》と言ったと久光当人が後年回想しているように、当の久光にしろ、ある意味ではバクチだったかも知れません。しかし、こういう進退窮まったときにこそ薩摩の風土が発揮されます。古来薩摩には《迷ったら飛べ》―鹿児島方言では《泣こうか飛ぼうか、泣こよっか、ひっ飛べ》と言います―という言葉があり、この考え方が折に触れて発散されるときがあります。幕末の薩摩藩の動きを詳細に検分するにつけて、綿密な計画のもとに倒幕まで進んでいるわけでもなく、折に触れてこの薩摩の伝統が当時の西郷隆盛はじめ、大久保利通、島津久光を動かしていたのだと気づくわけです。歴史とは、しょせん人間が動かすもの、ひょんなそのときの動きによってさまざな動きへ変わっていくものです。そしてその最大なファクターは人間の意志、想いの強さです。他の藩ではなく、薩摩が270年も続いた幕府を倒すことができたのは、ひとえにその想い、情熱だろうとつくづく思わされます。そういう長く培われた薩摩の伝統を蓄えていた下級武士のエネルギーを斉彬から引き継いだサムライ、それが島津久光だったのだろうと思うわけです。彼の時代的役割は幕府を倒すまでの役割でしかないことは、しかし久光には自覚できなかったようです。
  久光は上洛の本来の目的であった幕政改革のため、1862年5月大原重徳を勅使として江戸に下ります。そして幕府に対して一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職に任命するように要求、渋る幕府に武力をちらつかせてしぶしぶ承認させます。しかしこの幕政改革などほとんど実質的な幕政改革などに貢献するはずもなく、幕政改革などすでにできないほどに幕府内部は瓦解していたのです。
 薩摩藩にとって歴史のいたずらと言うべきか、薩摩藩の動きを決定付ける事件が、江戸からの帰りに起こります。これが《生麦事件》です。久光一行の行列の前を下馬せずに通ろうとしたイギリス人を切り捨てた事件で、これが発端で翌1863年7月イギリス艦船7隻が鹿児島の錦江湾に入り、世に言う《薩英戦争》が起こります。この体験により、薩摩は攘夷の不可能を悟り、逆に英国に近づき積極的に欧米化を図ります。このときの薩摩の経験が後の殖産興業、富国強兵策の元になり、近代国家日本の原型が作り出されていくことになるわけです。
 その後も西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀などを中心に公武合体路線を模索していきますが、一橋慶喜との路線の違いが明確になるにつれ、薩摩藩首脳部は倒幕しかないと腹を決めます。このときの心境も《泣こうか飛ぼうか、泣こよっか、ひっ飛べ》の心境だったろうど思います。そこのところが、最後まで一橋慶喜つまり徳川家を生かそうとした土佐藩首脳部との鮮明な違いになります。

 そして、運命の年1867年を迎えます。この年10月土佐の後藤象二郎の勧めで大政奉還を受け入れた一橋慶喜に対して、あくまで徳川家を新政府から除こうとする薩摩藩の意思を実現するため、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀による粘り強い説得工作によってついに10月14日、薩摩と長州に対して倒幕の密勅が下ります。小松帯刀はこの密勅を薩摩に持って帰り藩主忠義、久光に提示、兵を挙げるよう説得。倒幕派兵に反対するものを封じ込め、ついに11月13日藩主忠義以下約三千の兵を軍艦四隻に分乗させ、海路大阪へ出兵するに至ります。途中長州の三田尻で寄港、長州藩との布陣などについて申し合わせを行い、23日京都の薩摩藩邸に到着。この出兵には、久光は同行しませんでした。彼はあくまで藩主の父として、万が一の時に備えて国元に残ります。そして1868年正月の二日を迎えます。日本の行く末をかけて、徳川幕府と薩摩、長州との決戦が始まります。薩摩、長州にしろ大博打だったろうと思います。島津久光の長年の想い―それは先君斉彬の意思を受け継ぐという形で推進されていきますが、彼の薩摩人らしい肝っ玉がなければ、統幕という偉業も実現できなかったように思います。時代は動き、薩摩がやらなくてもどこかの藩がやっていたかも知れないと思われますが、あのタイミングで実行できたのは、薩摩、長州あってのことと思います。島津久光というひとは、創業者島津斉彬の事業を受けづいた忠実な二代目という感じがします。



 

写真は、重富島津家の墓所にある久光の正室の墓。久光はこの重富島津家の婿養子に入ることで、養子先の種子島家から島津家に復姓するとこができた。

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