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常人を逸した時代の天才―島津斉彬


写真は島津斉彬を祭る鹿児島市の照国神社境内に建立されている島津斉彬の銅像。

  島津斉彬という薩摩の殿様は、幕末の名君として、西郷隆盛を世に出した殿様として名を知られていますが、彼の事跡について知れば知るほど、単なる名君などと十把ひとかけらできるような殿様ではないとつくづく思い知らされます。
 島津斉彬は1858年7月薩摩藩主就任からわずか七年後、50歳にて急逝します。わずか七年の間に島津斉彬が手がけたことを見て見ると、この人の頭の中には何が詰まっていたのか興味が尽きません。家来の報告を聞きながら書き物を書いていたエピソードが伝わっていますが、一度に二つも三つも考えられた人だと思われます。さしずめQuadCoreのCPUのような頭脳を持っていたようです。このような天才を前にすれば大概の人間はそのパワーに圧倒されるのも頷けるというものです。  西郷隆盛は島津斉彬を神格化しているところがありますが、これは西郷隆盛だけではなく、斉彬の意思を継いだ島津久光、次の薩摩藩当主島津忠義など、当時の斉彬に触れた人々は、彼の持つ力に圧倒されていたのではないでしょうか。
 そこで、今回は島津斉彬という殿様がどんなことを手がけていたのか紹介したいと思います。殿様という職業の人間とは一線を画していたと思われること必須です。
  現在島津斉彬の事跡を偲ぼうと思えば、鹿児島市の外れにある通称磯公園内にある尚古集成館を訪ねることです。そこに彼が行った数々の事業の一部が形として残されています。
 しかし、私が個人的に最も感動したのは、現在の照国神社の片隅に残されている電信通信実験の記念碑です。
 写真下がその記念碑です。
 島津斉彬は1855年緒方洪庵らに電気に関する本を翻訳させ、それを頼りに試作機を製作させ始めます。翌1586年には江戸の渋谷屋敷で試験に成功し、それを薩摩帰国の際には、その試作機を薩摩に持って帰りそこで実験を続けたといいます。1857年に、鶴丸城の本丸から、二の丸にあった探勝園の茶屋の間に電線を引いて通信に成功したと言います。その間の距離は約550メートルほどだったと伝えられています。
  モールスがワシントン―ボルチモア間において通信実験を成功させたのが1844年のこと。ペリーが幕府に電信機器を贈り、日本人に電信機が関心を引くようになったのが1853年のこと。島津斉彬も当然このような世界の情勢については知っていたらしく、自ら開発に乗り出したものと思われます。

 
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