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島津斉彬は毒殺されたのか??


写真上と左は、島津斉彬が死亡直前、薩摩の城下士たちの調練を視察していた天保山調練場跡、現在は天保山中学となっています。近くには天保山砲台の跡もあります。
今や、地元の人々にとっても、何の史跡なのかわからないところとなりつつあります。
薩摩にとっては、長州藩の高杉晋作の回天の地となっている下関市の巧山寺に匹敵する史跡と言ってもいいかも知れません。ここから近代日本の命運が定まった場所と私は考えています。それ程重要な場所と考えています。


 43歳の熟年になってやっと薩摩藩の藩主となった斉彬ですが、その7年後の1858年7月に50年の生涯を閉じることになります。風雲急を告げる時代の動乱の中、志半ばでの彼の突然の死亡には昔から毒殺説がささやかれてきました。
 作家観音寺潮五郎氏は父島津斉興派による暗殺の可能性があると書いておられて、私も長くその可能性を考えてきた一人です。島津斉彬と島津斉興は父と子でありながら、生涯馬があわなかったようですが、それは彼らが藩の当主として直面していた課題が異なっていたからとも言えるわけで、一概に人間的性格的な面だけでは考えられない部分があります。
 つまり、島津斉興が取り組まなければならなかった課題とは、一藩としての薩摩藩の財政再建であり、一方息子島津斉彬が直面していた問題は、欧米各国から開国を迫られていた当時の日本の政局であったわけです。島津斉彬は単なる外様大名の一藩主として一藩のことだけを考えておられる状況でもなかったと言えます。たとえ幕政に直接関わることはできなくても、島津斉彬の手腕は周囲から期待されていたわけで、当然その期待に対して応えようとしていたと言えるでしょう。かくして父と子は同じ時代に生きながら、彼らのベクトルはまったく異なった方向へと向かっていたわけです。
 
 ところで、島津斉彬の暗殺説に繋がっていく前後の動きをここで簡単に整理しておきましょう。
 島津斉彬が将軍後継を策して養女篤姫を13代将軍家定に嫁がせ、篤姫が将軍家定の正室となつたのが、1856年12月。

1857年6月17日 島津斉彬、篤姫の支援者であった幕閣阿部正弘が死亡
1857年10月  ハリスが将軍家定に拝謁。
1857年12月25日島津斉彬 幕府の通商可否に対して建白書を提出。
1858年2月   老中堀田条約締結許可のため京都に上洛。。
1858年4月20日 老中堀田条約勅許に失敗し、江戸に帰る。  
1858年4月23日 井伊直弼が大老に就任。
1858年5月1日  家定の後継に徳川福慶が内定。
1858年6月19日 井伊直弼が攘夷派の反対を押し切り日米通商条約に調印。
1858年6月25日 将軍後継に紀州藩の徳川慶福の決定を公表。
1858年6月23日 大老井伊直弼、老中堀田、松平を罷免。  
1858年7月2日  島津斉彬 徳川慶福将軍後継に決定したことを知る。
1858年7月5日  井伊直弼が徳川斉昭、松永慶永など一橋派を処罰。
1858年7月6日  13代将軍徳川家定死去。
1858年7月16日  島津斉彬急死。
1858年7月20日頃 家定死去の報が鹿児島に届く。

 島津斉彬が容体が悪くなったのは7月8日、現在の鹿児島市天保山中学の敷地となっている当時の調練場で城下士たちの調練を検閲し、帰城したあたりからとされています。10日ごろになると高熱が出で、その後ひどい下痢があり、16日早朝に死亡。死亡診断書はコレラと診断されたというもの。

 このような島津斉彬の死亡に暗殺説がささやかれて来た大きな原因は、彼の7月8日の調練場での城下士たちによる調練にあります。
 この天保山調練場での調練とは薩摩兵を近代式軍団として訓練していたいうことです。島津斉彬は早くからこれまでの日本式兵力を騎兵隊や砲術隊を中心とした西洋式軍隊編成に切り替えつつあり、さらには軍艦を建造し、海軍力までを含めた兵力を構想していました。彼が急死したきっかけは、この西洋式近代的軍団に仕立てた当時の日本最強の精兵三千ほどを従えて、京都に上がり、武力を背景に幕政を改革しようとしていたという動きに繋がっているのではないかというものです。その年4月に大老井伊直弼が就任し、ほぼ慶喜後継が絶望的になり、日米通商条約調印を強行した6月に斉彬は西郷を江戸に向かわせています。これは自分がこれから出立する膳立てをさせておくためと考えられます。江戸での状況次第では最後の手段をとる覚悟であったと思われます。京都に来た西郷から盟友吉井友実は斉彬が自ら三千の兵を率いて上京するつもりでいることを聞きます。また後に島津斉彬の意思を藩全体の意思として形成した島津久光が薩摩の精兵を率いて江戸に上がり、幕政改革を実現した歴史的流れを見ても、久光の行動は斉彬の遂げられなかった意思の実現とみてよいと思います。
 とすれば、1858年7月島津斉彬が死亡していなければ、斉彬は薩摩の精兵約三千を率いて東上していたことは確実です。
 そしてこのような動きをする斉彬を最も警戒していたのが、父島津斉興とその一派です。島津斉興にしてみれば、隠居して無事従三位の官位を戴いた当時、平穏な島津家の安泰が何より重要です。公武合体のためとはいえ、下手をすれば幕府に歯向かって取り潰される羽目になる可能性もあります。薩摩藩のことしか頭にない島津斉興にしてみれば、息子斉彬の行動は暴挙愚行以外の何ものでもなかったわけです。
 当時父と息子との間にはそのような意識のずれが大きくあったと思われます。それは単に父と子の人間的な確執に留まらず、新しい時代へ期待する人々と、今までの体制を維持しようとする人々との確執でもあったわけです。島津斉興と島津斉彬は、それぞれが向きの違う大きな時代のベクトルに乗っかっていたわけで、折り合うはずがありません。島津斉彬はそのような時代状況のなかで急死します。
 
 このように状況証拠は島津斉彬の毒殺説に対して島津斉興とその一派はかなり不利な状況にあるのは確かです。私も長く斉彬の死亡が余りにタイミングよすぎるので、斉彬毒殺説の可能性を高く考えていました。しかし、最近どうもそうでもなさそうな気がしてきています。それは、島津斉彬の病歴と彼が自身で取ったとされる銀板写真に残されている斉彬本人の写真、それと彼が死亡する年の春に臨海丸で勝海舟と共に薩摩に入港したおり、斉彬本人に会見したポンペの斉彬に対する印象などを踏まえて、結論するには、当時斉彬は相当憔悴もしくは過労状態にあったような気がしています。若いころの斉彬は、身体頑強で骨格も横幅があり、頑強な青年であつたと伝わっています。現在鹿児島市の尚古集成館に保存されている斉彬自身が取った日本最古の写真とされている斉彬自身の写真には、そのような雰囲気はまったく感じられないのです。肉が落ちた病上がりの頃の写真とされています。それに対して西郷隆盛の肖像画も描いたイタリア人のキヨソネが描いたよく見かける斉彬の肖像画には、ふっくらとした斉彬のイメージが描かれています。また彼は頻繁に体調を崩しては政務を中断していますが、それは、いわゆるできる人間に見られる《やりすぎ》による過労、神経性消化器官不良あたりではないかと推測しています。斉彬はあまり消化器官系が丈夫ではなかったのではないかと最近思っています。腸は内臓器官の中で最も脳に近い臓器であり、ストレスなどの影響を最も受けやすい臓器であるとも言われています。 
 真夏の薩摩の夏は蒸し暑く、疲れた体には痛く応えたと思います。連日の灼熱の中での調練視察に明け暮れていた斉彬の体は、極度の過労の状態にあつたろうと推察されます。毒殺説によれば、調練の視察を終えて錦江湾で釣りをし、釣れた魚を自分でさばいて食した後から気分がすぐれなくなったということで、料理に毒を盛られたのではないかと考えられているようです。
 当時の政局を考えれば、暗殺説などいくらでも考えられるわけで、暗殺説を考えればきりがないくらい次から次に要人が死亡していきます。阿部正弘、将軍家定、島津斉彬、孝明天皇と。今となってはすべては藪の中ということでしょう。斉彬の毒殺説に対して、最近病気死亡説が素直に受け入れられるようになったわけですが、それでも、完全に毒殺説が消えたわけではありません。可能性がある限り考えておかなければならないのが合理的考え方です。


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