Samurai World>薩摩紀行


島津氏の領内体制


島津氏の出自については、《島津氏のルーツ》で取り上げてありますが、島津氏の祖《島津忠久》の源頼朝落胤説は、25代当主島津重豪が水戸藩に対して《大日本史》の中に頼朝落胤説を入れるように要望し、採用されたことでより一般化したいったようです。
  一般に島津氏の流れは、島津貴久以降とそれ以前とで変わります。島津貴久以降の島津氏は島津氏の中では日置郡の一領主としての傍流でしたが、貴久の父島津忠良が頭角を現し、本家の家督相続に付け入り、貴久を鹿児島の本家に送り込み、貴久の四子、義久、義弘、歳久、そして家久をして三州統一を果たします。これ以降江戸時代を通じて、いわゆる近世島津氏が形成されていきます。
 徳川幕府になり、徳川政権での初代当主となったのは、義弘の三男で、後に家康から一字を与えられた《島津家久》です。《家久》と言えば、義久、義弘兄弟の末弟として、軍略に優れた家久がいますが、その家久とは違います。
 
 貴久の嫡男が義久ですから、義久が当主であることはわかりますが、秀吉政権に屈した島津氏の体制は、実質二頭体制でした。それは秀吉の政略でもありました。秀吉は、実質義久の弟義弘を対外的には島津氏の当主として扱う方向を打ち出し、薩摩に義弘、大隈に義久と領地換を行います。薩摩が島津氏の本拠地であることはお分かりいただけるかと思います。義久は大隈へと追いやられます。島津氏に対する分断政策を秀吉はやるわけです。
 この二頭体制が、関が原での義弘の合戦へと繋がっているわけです。関が原に臨んで義弘は国許に援軍の要請を督促しますが、義久は無視し続けます。義久としては、関が原は単なる義弘の私戦にしたかったのではないでしょうか。
  結果として関が原での島津義弘の《適中突破》という前代未聞の退却戦となるわけですが、あの奇跡が起こり得たのも、実はあの戦に参加していたのは、義弘との精神的な紐帯で結ばれていた武士たちだけであったからです。

 義久には男子が生まれず、義久の末娘の亀寿を、義弘の次男久保に嫁がせます。しかし久保は朝鮮に渡海中にかの地で病死します。そこで今度は、義弘の三男忠恒(のちの家久)に嫁がせます。その間に男子が誕生したらその男子が忠恒の後を受けて家督を受け継げば、義久の血は絶えないということになるからです。しかし亀寿との間には、ついに子供は誕生せず、後には疎遠となりますが、義久生前の間は、側室を持つことは控えていたようです。忠恒こと家久はのちに側室との間に子をなします。


島津氏一門家
 島津家久の嫡男光久が島津本家の家督を継ぎ、次男の忠朗が加治木の領主となり、ここに加治木島津氏が誕生します。加治木は義弘が晩年最後に隠居し、館を営んだところです。
 江戸時代の島津氏の領内体制は、一門家、一所持、一所持格、寄合、寄合並、小番、新番、小姓与、与力と藩士の階層序列を規定しています。一門家とは、最高の家格で、加治木島津、重富島津、垂水島津、喜入の今和泉島津の四家がありました。その中でも、加治木島津氏が筆頭家格と位置づけられていました。江戸時代中期から後期にかけて藩政を牛耳り、後には将軍徳川家斉の岳父として中央政界にも権勢を誇った島津重豪は、加治木島津氏の嫡男として誕生しています。
 また、一所とは私領のことで、薩摩に13箇所、大隈に7箇所、日向は都城に1箇所とありました。ここには島津氏一族またはその流れのものが配置されていました。


外城制度
 外城制度とは、島津氏独特の制度で、他藩には見られません。徳川政権の下では、元和令によりいわゆる《一国一城》制度が定着していくわけですが、薩摩の外城制度は明らかにそれに抵触しているようです。特に城壁の城があるわけではないのですが、実質国境沿いに莫大な兵士とその要塞が113箇所もあるわけです。このことに疑問を呈した幕府巡検使に対して島津氏の返答が面白い。島津氏の回答は、『義久が九州一円で抱えていた武士たちは応分の数であったが、秀吉に領地を二カ国に削られたため、それまで抱えていた武士たちを一箇所に集めるほどの場所がなかったので、各地に分散させている』というものです。人を食ったような言い訳ですが、幕府巡検使はその回答に納得したということですから、幕府の役人も事なかれ主義が染み込んでいたのかもしれません。
  それを言うなら、120万石から防長二カ国38万石に圧縮され、膨大なリストラを敢行しなければならなかった毛利氏の場合はどうなるのでしょうか。
 ですから、島津氏の場合、外城制度には、島津氏の思惑があったわけで、芳即正氏は『島津重豪』の著作の中で、薩摩の外城制度は、秀吉、関が原と立て続けに全国政権に敗退したことで、また徳川政権がいつつぶれるかわかったものではない、したがったそのときのために万全の体制を常備しておく必要性から発生してきているのではと推測されています。それがいつまでたっても徳川政権瓦解の兆しは見えず、逆に安定してしまって、完全に平和な時代になってしまった。
 そこで、今度は、藩内の行政的な管理システムとして、外城に居住している莫大な《郷士》たちを農民支配の完璧なシステムへと変換させたので、《郷士》たちはそのまま身分は士分扱いのままとした方が便利と判断されたと推測されています。
 こうして、外城制度とそこに居城する《郷士》たちは他藩の基準からすれば農民の範疇に入りそうなのに、あくまで士分として、サムライとして生き続けていくことになります。そこには、他藩の5倍というとんでもない数の《サムライ》たちが、農民収奪の機関として江戸時代という建前上の封建社会を支えていったと思われます。

関連ページ
薩摩紀行
 
inserted by FC2 system