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薩摩独特の防衛網と民衆管理システム―外城制度


  関が原の戦いで、島津氏は約1000の兵力をもって西軍に参加し、敗軍になってしまった。島津義弘を大将とし、後世に聞こえし『関が原の退き口』いわゆる敵軍の中を中央突破するという前代未聞の行動を演じることになる。伊賀の山越えをし、堺から船で大阪に入り、鹿児島に帰りついたときには、供回りわすが80人くらいだったというから、その撤退がいかに厳しいものだったかが想像できる。
 そのようにして関が原の戦いに西軍として参戦し、敗者となった大名で、領土没収もなく、一人として切腹という事態にも至らず、ほとんど無傷で江戸時代を迎えたのは、島津氏しかいない。
 毛利氏は120万石から一転、三分の一以下に削減され、過酷なリストラを敢行せざるを得なかった。その傷跡は今でも旧領の安芸の国にある。長州へ連れて行きたくても連れて行けなかった多くの家臣たちのなかには、そのまま住み慣れた土地に帰農していったものが数多くいた。同じく西軍の大大名として参戦した宇喜多秀家はしばらく島津氏に匿われた後、八丈島に流罪。その地で生涯を閉じた。そういうことを考えると、島津氏の無傷のままの領土安堵は、不公平そのものであるような気がする。
 なぜ、徳川家康は、西軍として参加した有力な外様大名島津氏に何らかの懲罰を与えなかったのだろうか。
  ほかの大名とどこが異質だったのか、なぜ関が原後の外交戦術に勝てたのか、そんなことを考えてみると、ひとつには島津氏独特の『外城制度』がクローズアップされてくるのである。

 外城制度(トジョウセイド) の配置図については、最初のページをご覧いただければお分かりのように、本拠地の鶴丸城を囲むように藩内の各地に武士団を定住させていた。その集落を地元では『麓』と呼んでいるが、江戸時代を通して約113ヶ所ほどがあったと言う。最初のページに掲載してある『麓』はその中でも特に規模の大きい麓集落で、現在でもその名残を留めている。
 そもそも歴史的には、戦国末期からの大名への発展過程の中で、土地と結びついていた中世武士団、土豪たちは一箇所に集められ、戦国大名の統制下に管理されていくのである。これが近世城下町の誕生である。土地から切り離され、『鉢植え武士』へと転進させられていく。やがて時代が太平の世の中になると、鉢植え武士たちは、闘う武士ではなく、事務官吏としての性格を帯びていくことになる。
 毛利元就の時代には、毛利氏の家臣団と言えども、有力な家臣たちは、中世の地頭クラスの武士たちで、自分たちの領地をそれぞれもっていて、毛利氏に対する同盟関係という形で参画していたに過ぎない。したがって、当時は、戦の最中勝手に陣払いするなどの行為は行われていた。軍事的にも完全に統制下になかったのである。毛利元就といえども完全に中国地方の武士たちを直臣として統制下におくことはできなかった。次の輝元の時代に、郡山城から広島城へと移動したのは、土地から土豪家臣を完全に切り離し、管理下におくためであった。家臣団は中国地方の山間部から広島城下へと移動させられたのである。
 しかし、薩摩では、そういう家臣団の城下町への一斉移住は採られなかった。

 『麓』は元来は中世の領主の館と山城を中核とする集落であるが、他の大名が戦国末期から江戸時代にかけて、中央集権化への手段として近世城下町の形成へと進んだのに対して、島津氏の場合、そういうプロセスにならなかったのは、はやり薩摩独特の条件がある。
 島津氏が薩摩、大隈、日向の三州を統一した後、豊臣秀吉の政権下に下ったとしても、内心は北からの脅威に備えていた。肥後の秀吉子飼いの加藤清正などの豊臣政権を仮想敵国として想定していたことは否めない。
 当主島津義久は、大の秀吉嫌いであったようである。秀吉の九州征伐に下り、川内の泰平寺で、出家して秀吉に謁見したものの、内心は不本意だった。歴代の島津氏には、島津氏に命令できるのは、天皇と近衛家くらいであるという自負があり、どこの生まれか出自もはっきりしない秀吉ごときに命令される覚えはない、というのが義久の思いであった。秀吉と義久はどちらも同じくらいの狸だから、秀吉は義久の次弟義弘を目にかけ、島津氏の当主として扱う政策に出たのも、義久に対する不信感の表れでもあるし、同時に義久の秀吉個人、ひいては秀吉政権への不信感が、秀吉政権を仮想敵国視させていたものと思われる。関が原の戦を前にして、義久が義弘の度重なる援軍要請を無視し続けたのも、秀吉政権に対する個人的な親近感や恩義など微塵も感じていなかった証拠であろう。
 こいう戦国末期の状況が、時代の流れの中で消滅していくはずの中世武士団の集落が、新たな防衛網として活用されてきたわけである。
  本城の鶴丸城は、義弘の次男家久が本格的に築城したものだが、外城制度が実質的に機能していたので、天守閣などなく、近世城郭ではなく、中世の館と呼ぶにふさわしいものである。
 しかし、仮想敵国に対する防衛手段としては、安芸に移封された福島正則などは国境に大規模な城郭を築城し防衛ラインとしていたことを考えれば、防衛ラインの必要性からだけではなぜ独特の外城制度が形成されるにいたったかは完全に説明できそうにない。

 そろそろ本題に入りたい。つまり、薩摩の外城制度は、なせ徳川家康も恐れるほどのものだったのかということ。数十万の大軍を繰り出せば、薩摩一国など軽く平らげられたのではないのか、実際秀吉に屈服したではないか、と言う疑問である。
 しかし秀吉の九州征伐と関が原の戦いの後では、若干事情が異なる。 秀吉の九州征伐の際には、島津氏もやっと念願の三州統一(薩摩、大隈、日向)がなり、その勢いで九州北上戦を始めたのだが、家臣団の統制は毛利氏の場合と同じく未完成の状態であつたことは否めない。
 島津氏も秀吉政権下の時代に、国内の新たな家臣団編成をした。その完成された姿が外城制度である。江戸時代に武士から農民に至るまで完璧な支配システムとして完成されていくのである。
  この外城制度が生み出す最大の特色は、中世の土豪的な性格を持たせ続けて、地域との密接なつながりを生み出すこと、次に平素は農業に従事しながら、いざと言う時には武士としての軍事力を併せ持つと言うことである。その結果、薩摩藩では、武士階層の割合が、他藩の五倍くらいになっていたと言われている。
 つまり江戸時代、武士階層は藩の人口全体に対する割合が平均5%であったのに、薩摩藩では25パーセントが武士階層に組み込まれていたと言う。単純に考えても兵力動員力が他藩の五倍である。しかも、その兵力の大部分は、『郷士』といって、本城の鹿児島の鶴丸城下に住む『城下士』と区別され(江戸時代には蔑視されていた)、官僚化性格をもった軟弱な武士たちではなかった。薩摩全体の風土が、豪傑な人間を理想としているが、郷士連中はそれを路でいく人々と言えた。
 関が原の戦いに参戦するため、義弘個人を慕って、手弁当で関が原まで足掛けていった人々である。関が原の戦いに参戦した薩摩の兵たちとは、大将と一体感をもち、気力体力ともに最高のタフな兵士たちだったのである。士気がまったく違うのである。だから奇跡も起こせたのである。
  そんなタフな兵士たちが、全藩113ヶ所もの山間部の至る所に配置されているのである。普段は農民の顔をしながら。

 徳川家康が最も恐れたのは、もし薩摩に軍を投入した場合、薩摩は死に物狂いで立ち向かってくるだろうから、長期戦になる可能性が大きいということ、その場合、政権確立の初期の段階で江戸を空けることが、政権基盤の崩壊につながるというシナリオだろう。よくて長期戦、下手をすれば最後の一兵まで闘う伝統が薩摩にはみなぎっていたので、ゲリラ戦に巻き込まれ、出口が見えなくなる危険性も孕んでいたでろう。アメリカが小さなベトナムにどうしても勝利できなかったのと同じ事態に巻き込まれていた可能性もあった。薩摩の兵の士気は、常に最高に高められていたからである。郷士、そして郷士と地域的連帯感を形成されていた農民など文字通り藩の全人口が兵力に変わる可能性を秘めていた。
 薩摩の地形を復習してみると、肥後と薩摩は霧島山系を境にして険しい山々で隔絶されている。薩摩、大隈の地形そのものが九州のほかの地域から隔絶される地形になっているのである。
 薩摩という国は、古来よりその地形的特性から、独立王国として日本のほかの地域から切り離された状態で発展をしてきているが、それは数万年前の喜界島大噴火以来の地質学的、地形的特性から規定されているものである。
 薩摩は、実は南方の海からしか攻められない地形となっているのであるが、実は、この南方に広がる水平線に、家康が薩摩に手出しをしなかったもうひとつの理由が見えてくるのである。

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