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各地の外城《麓》と現状






 江戸時代には薩摩藩各地に総計103の麓が配置されていました。その主要な麓配置を示したのが上の図です。
 薩摩藩は藩独自の厳しい関所制度を設けて外部との接触をほぼ遮断していました。他国へ通じるルートには、出水ルート、大口ルート、そして日向ルートの主要三本ありました。当然各ルートの出入り口には藩内有数の大規模な麓を配置していました。最大規模が出水です。ここには、藩内でも豪腕ぞろいの武士たちを配置し、さながら薩摩のコマンド部隊みたいなところです。次が大口ルート上にあった大口、そして日向ルートの高岡がありました。他に大規模な麓は、加治木、蒲生、重富、入来、垂水、国分などがあります。

 《麓の現状》
 さびしいかな、まだ麓の史的価値が十分認識されていないようで、観光用に整備され、維持されている出水や知覧そして入来の麓集落を除けば、他の麓集落は寂れるままに放置されているのが現状です。空き家も増えて、江戸時代の貴重な建物や町並みは荒廃し続けています。住民の意識も低いことが伺えます。自治体も特に知恵もないようです。個人の資産と史的資産との調整も難しいとは思いますが、今手を打たなければ、恐らく次の世代には消滅していくでしょう。
 
 麓集落は曲がりなりにも、武士たちの集落ですので、そのプライドだけは、今でも残存していて、町村統廃合の隠れたアキレス腱になっていることは事実です。他の県には見られない、鹿児島県独特の因習だと思います。麓がそのまま現在までの市町村の中心地となつていて、麓同士の因縁というのがあるわけです。若い人には無縁のことでも、古老クラスになるとまたまだあります。
  麓集落は大隈半島より薩摩半島に多いのは、薩摩半島が戦国から江戸時代にかけて、発展していた地域、もともと島津氏のお膝元であったからです。薩摩半島のことを《西目》、大隈半島のことを《東目》と呼んでいましたが、これは現在の70代以上の鹿児島の人間なら通じます。大隈半島は西目の人々が入植して発展させてきた地域というブライトが込められているのです。大隈半島にはもともと島津氏を凌いでいた肝属氏、根占氏などの大豪族がいたことを忘れていて、島津氏中心の視点しかないのがわかります。現在でも大隈半島は《陸の孤島》などど得意げにのたまう人がいて、一旦しみ込んだ視点はちょっとやそっとでは払拭できない歴史の重みというのを感じます。
 各地の麓を歩いていて、薩摩独特の城下町はかなりいいぞ、という感じがします。備中高梁や萩の城下町もすばらしいですが、ひなびた麓に足を踏み入れると、薩摩のサムライたちの息が感じられます。
 
 出水の麓は特別です。これはもう要塞です。周囲から高まった小高い丘に麓が展開しています。薩摩の麓の典型的な例で、中世の山城的伝統を踏まえた造りと理解しています。この特色を踏まえているのが、小松氏(根占氏のこと)が江戸時代に館を構えた薩摩半島の吉利の麓にも言えると思います。小規模ながらその麓構造が現在でもしっかり確認できる貴重な麓です。これなら、戦えるぞ、という気がしてくるのです。吉利の麓は絶対、計画を立て維持管理していくべきです。後世のためにも。蒲生にもすばらしい麓が残されていますが、将来への展望が見えません。廃れるままに廃れていく気がします。麓ネットワークでも設立して、麓維持とその活性化へ向けて今行動を起こさないと、後で後悔すること必定だと思います。
 麓の楽しみ方は、一箇所だけ見ては駄目です。松江や津和野はそこが藩の防衛拠点が集中していたところとして見ていいわけですが、薩摩の防衛拠点は麓にあり、その配置とそのネットワークに特色があるわけで、それを全体として見てまわることです。

 

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