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調所広郷による改革の暗黒面
―奄美の奴隷『ヤンチユ』による財政改革

  調所広郷が薩摩藩の絶望的な財政破綻を立て直したことは周知の事実で、それが日本の国家の命運を決定していく討幕運動のエネルギーになっていくわけです。その点で彼の功績が最近見直されていますが、しかし物事には常に陰と陽があるように、調所広郷の改革にもその恥部が付きまとっていることを忘れてはならないと思います。

 彼の財政改革の中心的な部分は、琉球を利用した中国との密貿易と並んで、貢献度から言ってダントツに奄美群島の黒砂糖産業にあります。歴史再発見の『借金踏み倒しが倒幕を可能にした』で言及しているように、奄美群島の人々に黒砂糖の原料となるサトウキビ以外の作物の栽培を禁止し、生活に必要な米ならびに他の物資はすべと薩摩藩から市場価格よりはるかに高い価格で購入する流通ルートを作り上げ、奄美群島の人々から搾るだけ搾り取ります。つまり、黒砂糖は当時利潤幅の大きい商品で、奄美群島の実質奴隷身分であった『ヤンチュ』と呼ばれる人々を利用することで低価格で生産させ、それを大阪の市場で高値で換金します。そして奄美群島の人々には米の栽培を禁止し、米は薩摩藩から通常の市場価格より高い値段で売りつけます。

 今回は調所広郷の薩摩藩の華々しい財政改革の裏で、塗炭の苦しみを強いられてきた奄美群島の人々、特に一種の奴隷的身分の人々『ヤンチュ』の存在を名越護氏の『奄美の債務奴隷ヤンチュ』(南方新社)を通して紹介しておきたいと思います。  奄美群島の人々がサトウキビだけを作らされ、薩摩藩の黒砂糖専売制下に置かれていたわけではありません。18世紀初頭までは大島でも藩への租税は米で、稲作を奨励していたようですが、18世紀中ごろから大阪での黒砂糖の利潤率が多いことに目をつけた薩摩藩は、次第にそれまでの藩の政策を転換して、稲作中心の農業政策をサトウキビ中心の農業政策へと振ります。1745年に『換糖上納制』が導入され、さらに1777年奄美大島、喜界島、徳之島における島民による砂糖の売買を禁止し、砂糖をすべて薩摩藩が買い上げるという制度が導入されます。耕作地にはサトウキビが作付けされ、米、からいもなど島民の食生活に必要な食料が実質作れなくなり、完全に薩摩藩に生殺与奪の権を握られていきます。

 ところで、先に述べた『ヤンチュ』というある種の奴隷的身分の人々については、人間社会の一般的な発展過程において発生してきた貧富の差によって、古代から散在していたようです。これは日本本土の古代史、中世史を見ても明確なことで、富の格差による差別、人間の意識から発生してくる差別民などの存在を考えてもわかります。
 社会の小さな部分の中に置かれていた存在が、生産力の増大、富の蓄積、そしてそれを可能にしていく社会システムが発展していくにつれて、豪族、富豪層の家人的存在であつた人々が、なくてはならない存在となり、社会システムの中で確実に増大していきます。
 奄美群島は、もともと薩摩藩よりは琉球王国との関係が深く、人々の生活は琉球の風習の影響下にありました。薩摩藩が徳川家康の承認を得て琉球征伐を行うのは1609年のことです。これにより、琉球は中国交易の目的のために名目上の独立を行わせますが、その影響下にあった奄美群島は薩摩藩の完全支配下に組み入れられます。このときに琉球と奄美群島とが政治的に切り離されたわけです。

 奄美を支配下におさめた薩摩藩は米による上納を推進していくため、一部の豪族の下に隷属していた多くの隷属民に自作させようとしていたようです。しかし18世紀に入ると、日本本土での経済発展の動きの中に奄美の人々は巻き込まれていきます。江戸時代半ばごろになり、江戸の人口の増大、それに伴う大規模な消費活動が発生してきます。黒砂糖の消費が上昇し、市場価格が連動していくのも当然です。黒砂糖の経済的メリットを薩摩藩が見過ごすはずがありません。上で言及したようにそれまでの農業政策を稲作中心から一転して方向転換していくわけです。

 稲作の生産力を上昇させていくコツは、自作農民による集中努力型による耕作です。自分の利益が大きくなるように働くから、少ない耕地からでも生産力は上げられます。
つまり簡単に言えば、手抜きしない、サボらない、一所懸命働く様になるからです。ところが、サトウキビの栽培は稲作ほど丁寧な面倒は必要ない。いったん作付けすれば稲作ほど面倒見なくてよい。これは私の家もサトウキビを作っていたことがありますから、私自身の経験でもわかります。そうすると、大規模な耕作地(工場)に安い労働力さえ大量に投入すればよいということになります。その結果どうなったか。それまでの隷属民を自作農にしていく動きが、安い労働力への需要が高まることで流れは逆に流れ出します。一部の豪農の下に再び、隷属民が抱え込まれていく動きが発生します。サトウキビ以外は作れないわけですから、生活必需品はすべて現金で購入しなければなりません。そうするとそれまで少ない耕作地で何とか食いつないで来られた零細農家の人々も、豪農に生活のため、決められた上納ができなくて、借金する。借金が積み重なり、挙句は身を豪農に売り、隷属民に身分を落としていくというサイクルが始まります。

 そしてこの隷属民―『ヤンチュ』の大量発生を決定的にしたものが調所広郷の改革だったというわけです。調所広郷は財政改革の中心に奄美の黒砂糖を据え、徹底的に島民を絞り上げます。男子は15歳から60歳まで、女子は13歳から50歳まで、サトウキビのための耕作地を割り当てたと言います。島民は日常はすべてサトウキビ耕作だけに専念するわけではなく、村の補修工事、役人巡回の時の荷物運搬などにも駆り出されたといいます。毎年の台風などによる災害にも一切容赦なく決められた砂糖の上納を義務付けます。サトウキビをかじったり、なめたり、密売しないように役人をいたるところに配置監視し、密売したものは死罪。最終的には島内で流通していた貨幣まで禁止し、完全に貨幣経済から島民を締め出し、生活物資は物々交換か、上納分以外の砂糖の生産量に応じた手形を発行し、その手形で薩摩藩から必要な日常物資の配給を受けさせるというシステムを作り上げたと言います。名越氏によれば、その一例として、鰹節、塩、米の交換比率を上げています。大阪市場との比較でみた場合、島民に配給するときの交換比率は、鰹節―約92倍、塩―約28倍、米―約6倍という恐ろしい高値で島民に買わせていることがわかります。その利ざやが天保の10年間だけでも140万両にあがり、すべて薩摩藩の蓄財として蓄えられていくのです。ヤンチュの数は、調所の活躍した幕末には奄美大島の人口の2割から3割を占めていたとも名越氏は指摘しています。

 薩摩藩は島民から正規の経済ルート通じて収奪するだけではなく、島の有力者にサムライ身分を与え、島民を支配する合理性を与え、その代わりに鹿児島本土に詣でる『与人上国制』を使っても奄美の富を収奪していたと名越氏は指摘しています。
 郷士身分を与えられた『与人』は鹿児島の藩主へ謁見のために上がる慣習をつくります。そのとき手ぶらでくるはずもなく、藩主以下藩の重役連中に、大量の献上品を持参しなければなりませんでした。嫡男の元服、初の江戸入りなどの度毎にご祝儀を持参し、鹿児島に上がらなければならなかったといいます。当然大河ドラマで放映されている『篤姫』の輿入れの際にも、この奄美からのご祝儀は強制されていたようです。藩主に献上するものは『献上物』、家老以下に提供するものは『進上物』と呼ばれていたと言います。家老以下の連中もこの『進上物』を当然期待していて、それが彼らの家の蓄財となっていったことも当然です。現在の役人などが期待している『役得』というやつでしょう。

 今回は、調所広郷の財政改革の暗部を紹介しましたが、地元鹿児島でも明治維新の華々しい功績などは事あるごとに語られても、その裏で犠牲になっていた人々にはまったく光が当てられていないあまりにも悲しい現実があったので、今回いい機会と思い紹介した次第です。現在の日本が直面している社会的経済的問題に通じるところがあり、われわれ日本人が何を行ってきたかを振り返ることで、新しい未来を築くヒントとなると思います。

 
 
 
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