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鹿児島県日置郡、日置市の由来とは


 鹿児島県日置郡とは、2004年現在で言えば、次の行区域になります。
市来町  東市来町 伊集院町 松元町 郡山町 日吉町 吹上町 金峰町です。
 特にこの中でも 歴史的に古代ハヤト族、島津氏と関連が深い地域は 市来 吹上 金峰町あたりです。
 金峰町は隼人族の一族 阿多タハヤトの本拠地です。吹上は、伊作島津氏(この島津氏が近代島津氏となる)の本拠地であり、興福寺系列の海蔵院があった場所でもあります。
 鹿児島県は、大きく大隅半島と薩摩半島から成り立っていますが、このあたりがいろいろな意味で薩摩半島の中心部と言えるところです。
 ところで、この一体を日置郡と言って、読み方は「ひおき」と読んでいます。この「日置」のルーツについて、畑井弘氏は、『物部氏の伝承』の中で、日置部とは、高麗系渡来氏族ではじめは銅鐸祭祀族として、のちには鋳鋼技術者集団、鍛冶技術者集団であり、古来伝承のある「土蜘蛛」と呼ばれている集団ではなかったかと推測されています。もともとは大和国の日置部にその発祥があると言われています。
 そしてもこの「日置」という漢字は、もともとは「へき」と発音したものであること、その語源は古代朝鮮語の「土」にあると推測されています。そもそも表音としての「へき」を当時の役人がその原義を残しながらも漢字に転用するときに 「日置」を宛てたのではなかいかというものです。「へき」→「ほき」あたりは漢字と音の相関関係が想像できそうですが。
 このあたりは、朝鮮語に詳しくないのでなんとも言えない話ですが、その「日置ヘキ」とは、地域によっては「比企ヒキ」とも表記されているそうです。
 ここで、「比企」と聞けば、島津氏のルーツを読まれた方には何かピンとくるはずです。島津氏のルーツとして一般的に流布されている伝承が 島津氏の始祖島津忠久は、源頼朝と丹後ノ局(比企能員の妹)の間に出来た子となっています。この伝承を私たちはついつい、頼朝と比企氏との接点から考えようとしますが、ひょっとすると島津氏と比企氏との接点が、頼朝と比企氏との関係にずらしてあるのではないのかと邪推できるのです。 比企氏が北条時政に一族誅殺されるいわゆる「比企氏の変」直後 島津忠久が連座責任をとらされ、日向 薩摩 大隅の守護職を罷免されている事実からもわかるように、比企氏と島津氏とはなにやら因縁深い繋がりをもっていたのではないでしょうか。
 その「比企」=「日置」の名前が 島津氏の本拠地につけられていることは、決して偶然などでは済まされないような気がします。

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