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根白坂の戦い   宮崎県木城町


高城から遠く根白坂の高台が見えます。
 根白坂は、現在の宮崎県木城町を走る県道312号線沿いにあります。この根白坂が戦国時代の歴史に登場してくるのは、1587年のことです。
 九州の覇権を握ろうしていた島津氏に対して、ついに豊臣秀吉が動きます。
10万を超える大規模な軍を九州に送ってきます。豊後にまで攻め入っていた島津氏は急報を聞いて、すぐさま全軍を薩摩日向へと撤収させ、侵攻してくる秀吉軍を迎え撃つ準備をします。
 豊後に侵攻していた島津義弘と弟の家久は日向高城にまで退却します。ここで秀吉軍と決戦を挑もうという作戦です。当時高城には、山田有信が城主として守りを固めていました。山田有信は大友宗麟の軍をここで迎え撃ち、敗走させたいわゆる《耳川の合戦》の立役者です。薩摩の武士団の中でも群を抜く武将です。わずか1300余命の兵力で高城を死守しようとします。
 しかし対する日向方面の秀吉軍は、秀長を総大将とする約八万の大軍で、高城をくまなく包囲します。戦いの趨勢はほぼ見えてくるわけですが、それでも秀吉にむざむざ無抵抗で屈するには薩摩隼人の血が納まらないと見えて、島津義久は薩摩の精兵約二万を引き連れて、薩摩から駆けつけてきます。これで島津全軍と秀吉全軍とが高城周辺で対峙します。
 根白坂は、高城から数キロほど南下したところにある高台です。そこに薩摩から攻めてくる島津氏に対して、宮部潤継の軍が数キロに渡り柵を構え待ち構えていました。
 島津義久はこの宮部潤継守る根城坂の柵を撃破しようと、全軍に突撃させます。これがいわゆる根白坂の戦いといわれる合戦です。
 宮部潤継の軍は、鉄砲を十分に用意しており、次々に柵に攻めかかってくる島津軍を鉄砲で一斉射撃します。それでも、島津軍は執拗に柵に取り掛かっていったようです。屍を乗り越えて次々に柵に取り付いてくる島津軍の兵は、もはや死兵ともいうべきもので、何かに取り付かれている一団のありさまだったようです。このときの激戦の有様こそ、実は長篠の戦で、柵に取り掛かり次々に鉄砲で一斉射撃されていくイメージ通りの戦い方です。この戦いの中にこそ島津氏の戦い方の本質が見て取れます。
 この戦いで島津歳久の養子になっていた島津忠燐が敵陣突入して戦死するなど戦死者約300名ほどにものぼり、島津軍としては秀吉軍の前にはなすすべもないことを悟ることになります。義久としてはせめて島津氏の意地を見せたかったのかもしれません。この後、島津氏は薩摩に全軍を返し、ついに義久が薩摩の川内の泰平寺で秀吉に会見し和を請います。
 現在では、写真のように史跡の案内板が道路わきに立ててあるだけで、畑となっています。ここで島津氏と秀吉の軍が九州の覇権を賭けて正面衝突が行われたことなど、案内板がなければ知る由もありません。


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