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福山城   広島県福山市 



福山城は、徳川譜代家臣水野勝成によって築城された城である。
 
 水野勝成は、三河の刈谷城主水野信元の弟忠重の嫡男として岡崎で誕生した。忠重の姉が徳川家康の生母であるので、徳川家康とは従兄弟の関係になる。
 訳あって若い頃の勝成は諸国を放浪し、この備後の地にも約10年ほど浪人の身として滞在していたことがある。
 関ヶ原の戦いに先立ち、勝成の父水野忠重が西軍によって暗殺されたことで、家督をついで刈谷城主となる。
 安芸の福島正則の改易によって、安芸に浅野氏がそして備後十万石に水野勝成が入封されることになる。
 水野勝成は、東の岡山藩の池田氏、西の浅野氏への押さえとして配置されたと言われている。
 勝成は、福山城が完成するまで、備後支配の拠点であった神辺城に在城した。勝成は、この神辺城から、福山の城下町建設のグランドプランを描き、指揮した。 しかし、水野氏は五代目勝岑(かつみね)が夭折し、跡目が無かったためお家断絶の悲劇に見舞われる。
  
 そのあとをうけて入封してきたのが、山形城主松平忠雅である。しかし松平氏の時代は短く、10年ほどで桑名藩へ移封。
 
 そのあとに入ってきたのが、宇都宮城主だった阿部氏である。
 阿部氏も徳川譜代家臣で、歴代城主いずれも幕府中枢の要職を占める生え抜きであった。 中でも福山城主七代の阿部正弘は、幕末の動乱で揺れ動く時代にあって、開明的な老中として活躍したことは有名である。
  福山城築城にあたっては、幕府の肝いりもあって、豊臣秀吉の伏見城の遺構が取り壊されて、各所に使用された。



















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