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鶴丸城跡  鹿児島市








観光度 ★
鹿児島に観光に訪れる方でここの城を特に見物される方は少ないように感じます。城跡には当時を忍ばせてくれる史跡はほとんどありません。石垣だけが残されているだけです。観光地として駐車場などの設備はありません。

鶴丸城は、島津氏77万石の本城として江戸時代に 第18代当主島津家久が築城。
 天守閣のない、館造りの珍しい近世城郭として有名。
 島津家久は、島津義弘の三男として誕生したが、嫡男は早逝、次男久保が跡継ぎであつたが、朝鮮渡海中に異国の地で病死。その跡を受ける形で三男忠恒が跡目となる。
忠恒は、関ヶ原の戦後処理で、家康の催促に叔父義久の反対を押し切り、ついに腰を上げ、上洛。家康に拝謁し、事実上関ヶ原の戦後処理に終止符を打つ。関ヶ原も終わった二年後の慶長七年の師走のことであった。家康から一字を賜り、以後忠恒改め家久と名乗るようになる。
父義弘は、はじめ家久がこの地に城を築城することについては反対。防衛上弱いというのが、義弘の言い分。
対して、もはや戦いなどない世の中になった今となっては、交通上便利なところがよいというのが、家久の言い分。果たして時代は 家久の見通しの通りになります。ただし、薩摩には国境に外城制度という他の藩には見られない要塞網があるという前提を忘れてはならないのですが。鹿児島の地方にはまたまだ隠れた城下町町《麓》が残されており、場所によっては、往時の雰囲気が味わえますので、むしろ城下町が好きな方は、鹿児島各地の《麓》を散策されてはいかがでしょうか。薩摩独特の武士たちの集落が味わえます。薩摩紀行でも紹介しております。

関連情報
薩摩に関する情報は《薩摩紀行》をご覧下さい。

 


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