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人吉城跡   熊本県人吉市 



人吉城は、相良氏の居城跡です。熊本県人吉市にあります。人吉というところは、南の薩摩と肥後との二つの国を分断する位置にあり、そのため交通の要衝としての結節点をなしてきたところです。人吉は日本3大急流として知られている球磨川沿いに開けてきた城下町です。霧の町としても有名です。朝霧に包まれる人吉城は美しい絵になります。
 人吉の町は相良氏の城下町として発展してきたわけですが、その相良氏とは、現在の静岡県の遠江の相良の荘に在地化したことから、相良氏を名乗るようになった一族です。 
 その後鎌倉幕府によって、現在の球磨川の多良木というところに配され、地頭として領主化していきます。
 弱小に分類される大名ながら、鎌倉幕府から江戸時代まで、武家政権の全時代を通じて巧みに生き残ってきた歴史を誇る大名でもあります。



そんな相良氏にも存亡の危機がありました。関が原では、当初石田三成に味方し、時の当主20代の相良長毎は、大垣城の守備にあたっていましたが、重臣で相良一族でもあった相良清兵衛が、家康側に内通して、大垣城を守備していた熊谷直盛ら5人の武将を斬り、大垣城を開城させます。この功績によって、徳川幕府の下でも、相良藩として生き残ることに成功します。
 時代は前後しますが、戦国時代末期には、九州は島津氏、大友氏、竜造寺氏の三つ巴の戦乱に突入していく中で、弱小領主の相良氏も、他の戦国領主と同様生き残るために、過酷な試練を味わうことになります。一時は現在の熊本県南部から鹿児島県北部までも制していましたが、島津氏が九州北上戦を始めると、ついにその支配下に下ることになります。しかし秀吉の九州征伐が始まると今度は秀吉に下り、島津氏の支配下から逃れ、独立大名となります。



弱小大名の悲運は続き、豊臣政権下では800名の兵を率いて朝鮮出兵に従軍し、足掛け七年に及ぶ出陣で戦死者、病死者約260余人に及ぶ多難な時代を経験していくことになります。
 現在の人吉市は、そんな相良氏が700年に渡って育ててきた城下町として、町全体にどことなく落ち着いた歴史の香りが漂っている山あいの静かな城下町です。




















観光度★★★
秋の紅葉が綺麗です。三大急流といわれる球磨川の清流の流れを聞きながら散策するにはよい場所です。


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