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熊本城  熊本市


熊本城と言えば、加藤清正と即座に口に出てくるほど、加藤清正と熊本城とは一体化しています。この城の主の長さで言えば、細川氏なのですが、どうも一旦定着した固定観念はなかなか払拭するのが難しいようです。
 熊本城を訪れるのはこれで二度目なのですが、久しぶりに訪ねてみて、改めてその雄大さと堅牢さに感動した次第。こんな城をプランニングした加藤清正こそ、熊本城の主にふさわしいと改めて感じ入りました。
 世界遺産に指定されている姫路城とは違った意味で、世界的レベルの史跡としての価値はあろうと思う次第です。

 


熊本城は、加藤清正が肥後54万石の太守としてその威信をかけて築城したものですが、壁にサツマイモのつるを埋め込んだとか、籠城に備えて城内に多くのイチョウを植えたとか言われ、戦国時代末期の要塞としての性格を色濃く残している城と思います。

加藤清正は、この城をいざという時、秀吉の遺児秀頼を擁して徳川家康と一戦構えるつもりだつたのではと思いたくもなるほど、この城の壮大な要塞としての印象を感じるのです。

熊本城は明治10年の西南戦争で西郷軍との攻防戦の最中、不意の出火で全焼したと伝えられています。当時の熊本鎮台司令官は土佐藩出身の 谷干城でした。私は彼の指令で熊本城を焼いたのだろうと推測しています。理由はいたって明白。西郷軍に取られたら、最強の要塞を敵に渡してしまうことになるからです。そういう危険性をゼロにして、西郷軍を追い詰める作戦に出たと見ています。西郷軍は熊本鎮台をたやすく落とせると踏んでいたようですが、それが彼らの最大の誤算だったわけです。そう易々と落とせる要塞ではなかったのです。加藤清正の執念を、明治の人々は忘れかけていたのかも知れません。

写真下3枚は宇土櫓と言われるもので、小西行長の宇土城の天守閣を清正が熊本城へ移築したもの。
 普通の城ならば、この程度でも天守閣なのだが、清正はその天守閣すら本丸天守閣を守る櫓のひとつにします。
 清正の熊本城にかける意気込みが感じられます。



観光度 ★★★★★
日本を代表する城郭です。世界遺産の姫路城にも劣らない城郭だったのでしょうが、西南戦争で消失し、その後市街地に組み込まれたりして、当時の大規模な城郭全体像が残されていないのは残念です。築城400年記念事業として、御殿の復元が完成し一般公開されていますが、いかんせん新築の御殿は、所詮新築でしかないという感じでした。古きものを大切に維持することがいかに難しいことであるかということを、改めて感じます。こういうところが、ヨーロッパの町並み保存と気合の入れ方が違うところです。

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