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飫肥城  宮崎県日南市


  飫肥城は、日向の国、現在の宮崎県の南部日南市に所在する。飫肥は、江戸時代,この地を領地としていた伊東氏の城下町として発展してきた。飫肥杉の産地として有名なところだけあって、島津氏の薩摩の国との間には山険が連なり、自然の境界を形成している。飫肥杉は、そのような自然を利用して伊東氏が殖産に勤めた結果として誕生してきた。
 伊東氏は,もともとは工藤祐経に始まる関東の武士の流れである。工藤祐経といえば、「曾我兄弟のあだ討ち」で有名で、源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際,曾我兄弟によって、父の敵として討ち取られたことで知られている。
 伊東氏は,その工藤祐経の末裔である。工藤祐経は、源頼朝の信頼厚く、その所領は全国33箇所に及び、その所領の中に日向国もあった。
 工藤祐経が曾我兄弟に討たれた後、その所領は子の祐時に受け継がれるが、祐時には男子が多く、所領がそれぞれ分与され、すでに伊東氏と名乗っていた祐時の子の代に、一部の一族郎党が日向の国に下向して土着していったと言われている。
 日向に土着していった伊東氏は、支族が各地に分散していたが、後発進出組みの本家の祐持が室町時代に下向するに及んで、各地の一族をまとめ上げながら、現在の宮崎市の北部に位置する佐土原市を本拠地にして次第に南下し始め、薩摩の島津氏との抗争に突入していくことになる。
 伊東氏が日向南部に目をつけ始めたのは、硫黄やミョウバンなど鉱物資源を商う海外貿易の拠点としての串間、さらには中国との海外貿易の利潤に目をつけたからと思われる。現在の串間、油津、さらに志布志などは、大陸との交易基地として大いに栄えていたところであり、現在の姿からは想像することなど難しいかもしれない。
 現在の日南市、さらには串間は、当時島津氏の領土であり、島津氏一族の新納氏が飫肥城を守っていた。
 さて伊東氏の絶頂期は、十代の義祐の時である。義祐の代に、飫肥城は島津氏から伊東氏の支配下に変わり、日向から九州南部一円への支配力を及ぼそうとするほどになった。義祐の義の一字は、将軍足利義晴から頂戴したもので、義祐の京かぶれは相当なもので、朝廷に盛んに献金し、従四位から従三位まで昇叙される。地方武士で従三位という高位は破格のものであった。
また、佐土原には京の都を模倣させ、祇園、愛宕も清水など京の地名を付けさせたり、金閣寺を真似て金柏寺を建立させ、さらには銀閣寺を真似て銀柏寺まで建立させようとしたらしいが、実現しなかった。次男義益の正室に、大友宗麟の姪にあたる、土佐の一条房基の娘阿喜多を娶らせるなど、日々公卿まがいの生活にのめり込み、次第に国政をかえりみず、仏門などに国費を浪費するなどしていった。
そんな中で、霧島山系のえびの高原を舞台として戦われた九州の桶狭間と称される「木崎原の戦い」で島津氏に敗北すると、それまで押さえつけられていた領内の不満が一気に噴出、窮地に追い込まれた義祐ら一族約100余名は、1577年12月取るものも取らずの状態で、雪降るなか、砂土原城を脱出し、険しい九州山地を超え、豊後の大友宗麟を頼って落ち延びていく。大友宗麟の姪にあたる、次男義益の正室阿喜多だけが、落ち延びていく一行のかすかな望みであった。
 大友宗麟は、伊東氏の依頼にこたえる形で、すぐさま島津氏討伐に着手するも、「耳川の戦い」で島津氏に大敗、その後は大友氏も坂を転げるようにして戦国大名の地位から転落していくことになる。そんな凋落した大友氏の下にもいづらくなった義祐主従約20余名は、つてを頼って四国の伊予に渡る。そこで四年間ほど過ごすが、貧窮の生活を余儀なくされ、従者が濁り酒を売ったり、木綿の帯を織って道後の町を売歩いたりして、義祐と義祐の三男の祐兵夫婦を支えていた。
 その後従者のつてで姫路に渡り、そこで毛利攻めで中国に進出してきていた羽柴秀吉に接触し、祐兵が秀吉に30人扶持で抱えられることになる。これが、飫肥藩初代が誕生するきっかけとなる。
 一方義祐は、従者を従えそのまま中国地方を放浪する旅に出奔、行方知れずとなる。
 それから数年、命の尽きる時を知ってか、祐兵夫婦が堺にいることを聞き、1585年7月末、放浪の旅を終え、船に乗り込んで堺に向かう。しかし船中で急に様態が悪くなった義祐を見て、関わりになるのことを嫌がったのか、船頭は義祐を堺の浜辺に遺棄してしまった。その噂を聞きつけて、祐兵夫人が浜辺に行き倒れている老人が、父義祐であることを確認して屋敷に連れ帰り介護するも、数日して他界。享年73歳と言う。
 一時は、従三位の地位まで上り詰めたことを考えれば、その最後はいっそう哀れを誘う。
 現在の飫肥城は、秀吉に仕えた祐兵が、関ケ原の後に飫肥に移封されたことで整備したものである。伊予での貧しい生活を支えつづけた従者たちがいなければ、ひょっとして伊東氏が大名として再興できるチャンスはなかったのではなかろかと思える。飫肥城は、そんな伊東氏を支えた家臣団の賜物とも言えそうである。
 現在は、近代城郭が少ない南九州の中にあって、数少ない城郭観光地として貴重であり、多くの観光客でにぎわう。城下町の一角には、外交官として世界的に有名な小村寿太郎の屋敷跡もある。また、天正の使節団としてローマに派遣された伊東マンショは、実は伊東義祐の孫である。豊後への逃避行の一行の中の一人であったのである。




 
観光度 ★★★
城郭自体は、★★ですが、城郭から飫肥の城下町へ溶け込む形で雰囲気がよいので、★★★にしました。町は、観光地として整えられて、遠方からも観光客が来ています。交通の便が悪いのがネックですが、ここまで足を伸ばされたらぜひ美しい日南海岸のドライブとセットで観光をお勧めします。

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