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岡城跡  大分県竹田市


  岡城は 竹田の城下町東北1キロ先に聳える溶岩台地の上に築かれた城です。
岡城の始まりは 1185年この地方の豪族緒方惟栄が源義経を迎えるために築城したと言われています。
義経は九州に逃れようとしますが尼崎付近で暴風雨にあい、ついにこの城に入ることはありませんでした。
 その後1331年に豊後の守護大友能直の分族である志賀貞朝が、改修して岡城と改めます。その後戦国時代まで260年間にわたり 岡城は志賀氏の城となります


  志賀氏の最後の当主17代志賀親次は島津義弘率いる3万5千の島津軍に包囲されたに関わらず、わずか千の兵力でもって
島津軍の攻撃を耐え抜いたことで、岡城と志賀親次の名は天下に知られるところとなります。
 ところが、本家の大友義統が朝鮮出陣にて敵前逃亡して、秀吉に除封されてしまいます。そのとき秀吉は志賀親次については、その武勇を惜しんで
豊後日田の地に領地を宛がおうとしたにもかかわらず、親次はこれを潔しとせず、福島正則に使える道を選びます。そして客分として34歳の若さで死亡、ここに志賀氏は滅亡します。

  その後に入部してきたのは、中川秀成です。兄の中川秀正は信長に仕え、その後秀吉に仕え、三木城主13万石の城主でしたが、朝鮮出陣中に死亡。
その跡を弟秀成が継ぎますが、秀吉は秀成から三木城を取り上げ、その代わりに2,3の新しい候補地を選ばせます。
その候補地の中から秀成が選んだところが、この豊後竹田の領地です。6万6千石で入部して、竹田の城下町整備に着手します。
同時に岡城の修築にも取りかかり、現在の縄張りが完成し天守閣も築かれます。しかし明治4年、城郭はすべて取り壊され、現在の石垣だけが残される城跡になります。
 

  岡城といえば、滝廉太郎の《荒城の月》のモチーフとして有名ですが、城跡には滝廉太郎の銅像が建てられています。
滝廉太郎は少年時代の3年間ほどをこの竹田の町で過ごしています。彼が《荒城の月》を作曲するに当たって、イメージしていた城跡とは、この岡城そのものであったろうと推測されています。
 現在国指定の史跡になっていますが、一度は訪れたい城跡です。
観光度 ★★★★★
観光地として整えられています。史跡のパンフレットがユニークなものでお土産に最適です。弁当でももつて一日のんびりすごすには最適な場所です。
城郭も広く散策する価値があります。

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