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臼杵城跡 大分県臼杵市 |
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臼杵城は、もともとは丹生島城と呼ばれ、海に面する小さな丹生島と呼ばれる小島でした。この小島に初めて城を築城したのはこの地の大名大友宗麟です。それまでも別荘的な館はあったようですが。 大友宗麟がこの城を築城するに至った経緯は、実に人間的な背景にあります。当時大友家の本拠は現在の大分市(当時は府内と呼ばれていました)にあった府内城でした。ところが、正室との夫婦仲が悪くなり、ついに宗麟は府内城から出て行きます。 普通こんなことはないはずですが、宗麟の場合は、正室がそのまま大友家の本拠に居座り、主の宗麟のほうが城を出で行くという前代未聞の行動にでるわけです。 その理由のひとつには、彼の正室の家系のバックグラウンドと性格が起因していることは間違いないと思われます。 彼の正室は 三番目が奈多八幡宮の大宮司奈多鑑基の娘です。奈多鑑基の妻は田北親員といって大友家一族でした。この宗麟の妻は、プライドが高く、気性も激しかったようで、宗麟とはことあるたびに対立していたようです。 宗麟はそんな正室との夫婦関係に疲れていきます。宗麟にとって、長い間の疲労感、妻への嫌悪感から必死に逃避したいという気持ちが、ついに静かに時が過ごせる場所へと移動させます。彼が妻から逃れる場所として見つけたのが丹生島だつたようです。寒村だった海の村が一躍北九州で有数の港町に発展していきます。 この臼杵城を築城する頃の大友家がおそらく絶頂期の頃で、臼杵の港にはポルトガルの船も寄港していました。 宗麟は後年 島津氏との耳川における大敗北で、いっそう政治の舞台から逃避し、内面的な世界へ入り込んでいきます。 晩年は さらに世捨て人になりきり、津久見の地に隠棲し、その地で生涯を終えます。 江戸時代になると、北九州は多くの小藩に分かれて統治されますが、この臼杵の城に入部してきたのは、稲葉氏でした。美濃から6万5千石で入部してきた稲葉氏が明治維新まで15代にわたってこの城の城主を務めます。 現在臼杵の町は落ち着いた城下のたたずまいを漂わせています。もともと豊後豊前は日本でもいち早く仏教が伝わったところで、多くの仏像、寺社があります。臼杵の町にも歴史を感じさせるお寺があります。 |
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