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浜田城   島根県浜田市 




 浜田城は、1619年伊勢松阪の城主であった古田重治が、五万四千石で移封され、浜田亀山の地に築城したことに始まる。
 しかし亀山には、もともと吉川元春の次男吉川元氏が石見在番として陣屋を構えていたところである。
 古田氏は、二代の重恒が家老らを斬り殺した事件(古田事件)などがあり、世継がなく二代で1648年断絶。
 そのあと1649年、播州より松平康映が五万四百石で入封。
 松平氏が、五代110年間ほど続いたが、幕閣への参画の都合上、下総へ移封。
 そのあと入れ代わりに本多忠敞が五万石で入封されるが、わずが三代10年間の治世で、三河岡崎へ転封。
 
 かわって1769年に老中職にあった先の松平氏が再び移封され、四代続いたが、密貿易事件が発覚し、最後の当主松平康爵は、奥州棚倉へ転封される。
 そのあとをうけて、上野国館林から松平氏が入封。この松平氏の当主はすべて養子で、最後の浜田城主は、徳川家斉の十男で、徳川慶喜の弟にあたる武聡で幕末を迎える。
幕末の第二次長州征伐は、石見地方を舞台にして行われ、浜田城は、石州口から進軍してくる長州軍と迎え撃つ幕府軍との決戦の場として歴史上に登場してくることになる。
 しかし士気あがる長州軍とそれを支える農民などの勢力の前に、かんじんの浜田藩が戦意を失い、城主松平武聡は、夜陰に紛れ小舟で日本海に漕ぎ出し逃亡するありさまであったとか。
 当主が逃亡した浜田藩や幕府諸藩の兵も、戦意を喪失し、浜田から逃亡し始める。  逃亡に際して、浜田藩兵が城に火を掛け四散し、浜田城や城下の武家屋敷もことごとく灰じんに帰した。
 上の写真の門は明治政府による浜田県庁舎の入り口として津和野藩から移築された門である。

















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