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津和野城跡   島根県津和野 



津和野城は、そもそも鎌倉時代に能登からこの地に移動してきた吉見氏によって築城されたものである。
 吉見氏は源範頼の孫為頼を祖とする源氏一族で、名門の家系である。武蔵国吉見荘を領していたため吉見と称し、鎌倉前期に能登ー移動し、元寇への防衛に備えるために西国の地石見へ移動させられた関東武士団たちの一族であったと思われる。
 関ヶ原の敗戦によって、吉見氏が毛利氏に従って長州へ移ったあと、津和野城主となったのは、坂崎出羽守直盛である。 坂崎出羽守直盛といえば、大阪落城の際、千姫を救いだしたものの、後年千姫の婚儀にからんで、切腹させられた武将として有名である。
 この一件で坂崎家は断絶。
 坂崎氏のあとをうけて、津和野城主となったのは、亀井政矩である。




亀井政矩の父亀井茲矩は、戦国大名尼子氏の家臣で、同じく尼子氏の中老だった山中鹿介とは妻同士が姉妹であった関係で、月山富田城が毛利氏支配下になったあとも、尼子家再興にかける山中鹿介とともに対毛利戦線に活躍した武将である。
 尼子氏滅亡後は、豊臣秀吉に仕え、1578年の上月城防衛、1580年の鳥取の若桜城、鹿野城攻撃に参戦し、毛利氏の攻撃から鹿野城を守り抜き、翌年秀吉から鹿野城を与えられ、13000石で鹿野城主となる。
 その後関ヶ原の戦いでは、東軍に参戦し、この功績によって38000石に加増され、さらにその子政矩の代に43000石の大名となる。



亀井政矩の代、1617年に津和野城に転封となり、以後幕末まで、津和野は亀井氏の城下町として発展していく。
 歴代藩主は、学問、文化の奨励に力を入れたり、米の代わりに和紙で納税するようにしたため、津和野和紙の技術が発展し、今日に至っている。
 津和野は、文豪森鴎外の生誕地でもあり、森鴎外の生家や鴎外の墓もある。
 中国地方を代表する城下町として、多くの観光客が絶えず訪れるところとなっている。









観光度 ★★★★
天守閣などはありませんが、山頂にそびえる城跡は中世の山城の雰囲気を感じさせてくれるものです。紅葉の季節は津和野の街並みも綺麗ですが、紅葉に映えて素晴らしい景観を楽しめます。途中までリフトで上がり、そこから徒歩で登ります。



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