中村忠一が18万石で伯耆国に入ってきた時、わずか12歳であったため、治世はほとんど家老の横田内膳が執っていた。
広家によって築城が始められていた米子城は、横田内膳によって再開され、3年後に完成し、5層野大天守と四層の小天守が相並んで建つ豪壮なものであったという。
しかし横田内膳は他の家臣の讒言によって当主中村忠一によつて殺され、その後横田一族は族滅させられる。(横田騒動)
中村忠一も、1609年20歳の若さで急死し、世継がなかったため、断絶となる。
その後加藤貞泰を経て、1617年に池田由之が入封して、伯耆池田氏の支配下となり、池田氏の家老荒尾氏の居城として明治維新を迎える。
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