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米子城




  米子城跡は、鳥取県最大の都市米子市を見下ろす湊山山頂にある。
 湊山に最初に城を築いたのは、山名氏であるが、その頃は、出雲の京極氏(尼子氏)に対する防衛上の砦に過ぎなかった。
 その後山陰の覇者尼子氏を降ろした毛利氏の支配下となり、福原氏など毛利氏の有力武将が在番していた。

 1588年、毛利一門の一翼を担う吉川広家が、吉川氏の本拠安芸国日の山城から、米子へ移封となる。
 この地に移封された、吉川広家は、早速本格的な城造りに取り掛かるが、ときは秀吉の時代から徳川家康の時代に移り変わろうとしていた。
 関ヶ原の戦いに、毛利氏一門として参戦していた吉川広家だが、ひそかに東軍に内通していた広家は、徳川家康の毛利輝元への制裁撤回を嘆願し、結果広家に与えられた防長二ヶ国を当主の輝元に与えられるように差配し、みずからは輝元の領土内の岩国に居城を構えることになる。



 中村忠一が18万石で伯耆国に入ってきた時、わずか12歳であったため、治世はほとんど家老の横田内膳が執っていた。
 広家によって築城が始められていた米子城は、横田内膳によって再開され、3年後に完成し、5層野大天守と四層の小天守が相並んで建つ豪壮なものであったという。
 しかし横田内膳は他の家臣の讒言によって当主中村忠一によつて殺され、その後横田一族は族滅させられる。(横田騒動)
 中村忠一も、1609年20歳の若さで急死し、世継がなかったため、断絶となる。
 その後加藤貞泰を経て、1617年に池田由之が入封して、伯耆池田氏の支配下となり、池田氏の家老荒尾氏の居城として明治維新を迎える。


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