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人間毛利元就のおもしろさ、怖さ
 
安芸の国は、なぜ下克上が激しかったのだろうか。

元就のプロトタイプとしての『大江広元』

大江広元から元就への中継ぎとしての『毛利時親』の存在

戦国大名随一の毛並みの良さ

戦国武将・毛利元就の人気薄の理由

精力絶倫男・毛利元就

篤実なマキャブェリストとしての毛利元就

元就の真のすごさは、彼の始末のつけ方にあり

・・・・続
 
安芸の国は、なぜ下克上が激しかったのだろうか。

 安芸の国に限らず、中国地方は全国でも有数の戦いが激しかった地域だが、これは主として源平合戦から鎌倉幕府成立過程にかけての歴史的背景が原因である。
瀬戸内地方は、武家政権が成立するまで、主に皇室領、寺社領と平家方の領地がほとんどだったところへ、鎌倉の武家政権がその領地を御家人などの新補地頭に与えたことで、古い勢力に取って代わって新しい勢力が浸透することになる。この趨勢は元寇の役による、関東御家人たちの、西国への下向によってさらに加速されていくことになる。さらには北条氏の得宗体制によって、北条氏の独占体制を嫌がった関東や東国に基盤をもっていた関東御家人たちが、本領を発揮できない東国の地に見限りをつけて、西国へ移動し始めるものも現れる。
 中国地方へ定着した関東御家人たちは、新しい領主であったが、それまでの土着勢力から台頭してきた豪族ではなく、領民にとって見れば、単なる支配者である。またお互いに名門の出自を意識したり、関東御家人として対等意識が強い。
 さらに、地頭の上位に位置する警察権力としての『守護』権力の不在がこの地方の戦国時代を特徴づけていくことになる。名目的な守護はいても、権力としての守護不在によって地頭クラスの国人領主たちはお互いの利権を『一揆』という契約によって守ることになる。  
 そういう安芸の国人領主たちのなかにあって、毛利氏は一揆連盟の盟主的位置づけを早い段階からもっていたと言える。
 
元就のプロトタイプとしての『大江広元』

 毛利元就という人間を理解するためには、毛利氏の祖に当たるされている(実際には大江家はもっと遡れるが)大江広元のことをぜひ念頭に入れておく必要がある。 毛利元就という人間が突如として歴史の偶然として発生したなど、絶対にない。大江広元と大江家の伝統がなければ、毛利元就という人間は生成されなかったはずだ。
 まず元就に流れ込んでいる大江家の伝統とは何かということだが、 これは策謀家としての伝統、つまりは兵法に尽きる。大江家は一方では歌人や朝廷の文書係りの家系でもあるが、大江家の重要な偉業は孫子の兵法の注釈と独自の体系化である。大江家というのは、表向きの顔は、今で言えば国家官僚なのだが、その裏の顔は、中国の兵法を独自に解釈し、大江家独自の兵学を完成させている当代随一の軍略家・策略家である。
 大江広元は大江家の実子ではなく、藤原氏の出自で、大江家の養子となった人物だが、早くから学問法律に精通し、源頼朝に請われて鎌倉幕府に参画したわけだが、教科書に記載されているように、鎌倉幕府当初の幕府評定衆13人の中の1人と考えていては、大江広元の非凡さなど理解できないだろう。
 大江広元の鎌倉幕府最大の功績は、頼朝の下での朝廷との交渉役や幕府政治のブレーンとして働いたことではなく、頼朝亡き後、北条政子との二人三脚で、頼朝の流れを根絶やしにし、頼朝挙兵以来の関東武士たちを次々に失脚させ、北条執権体制を磐石のものとしたことにある。 北条執権体制を造り上げるプロセスで、大江広元は官僚としての才能だけではなく、軍略家・策略家としての才能を存分に発揮したことだろう。
 
大江広元から元就への中継ぎとしての『毛利時親』の存在

 大江広元の嫡男は朝廷貴族に還ったので、嫡流は次男の長井氏ということになろうが、長井氏の方は三浦合戦のあとも幕府中枢に食い込んでいたものの、あまりぱっとしなかったようである。 大江家の資質と伝統を受け継いでいったのは、むしろ広元の四男季光、季光の四男経光の方であろう。季光の方は、三浦合戦で戦死することになるが、当時越後の領地に在住していた季光の四男経光だけが生き残ることになる。この経光の四男が時親である。この時親こそ、毛利氏関係の書物もほとんど触れることはないが、なかなかのくせ者であるし、元就が歴史上に登場するために押えておかなければならない重要な人物である。
 越後の本荘の家督の大部分は、一応嫡男の基親が受け継ぎ、四男時親は、残りの領地と飛び地であった安芸の吉田の荘園を相続しているが、問題は、領地の過小などではなく、資質と運命の強さにある。
 時親は、承久の乱による功績や北条氏(長崎氏)との婚姻関係もあって、もっぱら六波羅探題の評定衆として京都に在住していた。 時はすでに北条氏の得宗体制に陰りが見えはじめていたころである。
  彼は、京都在職の在京料として河内国に2百貫の領地をあてがわれていた。そのころ足利尊氏が鎌倉で兵を挙げ、京都へ上ってきたが、すぐに北畠顕家や新田義貞の兵に敗れ、九州へ敗走することになる。このとき、時親は尊氏には従わず、しばらく隠棲し、尊氏が湊川の戦いで楠木正成の軍を破って再び京都に進撃してくると、曽孫の元春を尊氏の軍に代理として参加させ、はっきりと北朝方としての態度を取る。
 ところで湊川の戦いで敗れた楠木正成の出自についてははっきりしないが、楠木正成は若い時、毛利時親に師事し、兵法を学んだとされる。 その接点が、時親が在京料としてあてがわれていた河内国の領地であり、ここで若き楠木正成は、軍師としても高名であった毛利時親と接触をもったと思われる。 
 毛利時親は、 80才近くの高齢だったため、曽孫の元春を自身の代理として尊氏側として行動させ、鎌倉幕府の滅亡とともに没収されていた吉田の領地を再度取り戻す。そして1336年夏ごろに曽孫元春はじめ、譜代の家臣たちたを伴って安芸の吉田に一斉に移動し、ここを新天地として毛利氏の本拠に定めることになる。
 このとき時親は、大江家に伝わる『江家軍書』も大切に吉田に運び、その後代々毛利氏に伝えていった。
 
戦国大名随一の毛並みの良さ

 数ある戦国大名の中でも、毛利氏ほど毛並みの良さと、そのルーツの古さが特定できる家系は、日本史上随一である。案外このことは一般に知られていないが、安芸国における毛利氏の立場を理解するには、念頭に入れておくべき知識であろう。
 島津氏なども鎌倉時代から続いた大名としては、日本でも古いほうだが、島津氏については頼朝の落胤説もあり、そのルーツは曖昧だ。もし島津氏が中国の蓁の始皇帝の子孫の帰化人の末裔とする説が正しければ、毛利氏と互角の名門ということになろう。その他大内氏なども百済の王家の末裔とする説が通説であり、古い家系に属した大名だろうが、戦国時代の下克上に淘汰されていった。そういうふうに考えると、やはり毛利氏は鎌倉時代以前からの家系を誇り、なお幕末以後も生き残った、毛並みの良さにかけては他の追随を許さない家系なのだ。徳川家など問題外なのだ。
 ただ毛利氏家臣の中にあって、毛利氏と張り合う名門一族がある。私が関心をもっている益田氏である。益田氏のルーツは藤原鎌足であり、毛並みの良さとルーツの古さにかけては、毛利氏とほぼ互角と言えるが、大名格でない。ただし徳川家康から石見の旧領を安堵するかわりに毛利氏から離反するよう誘われているところを見ると、それなりに見なされていたようである。大名になるチャンスを棒に振って、益田氏は毛利氏の臣下として留まる決意をしたようである。その後益田氏は毛利家の永代家老として忠勤を励んでいくことになる。毛利氏と益田氏、これだけ役者が揃えば、他の江戸時代の大名など 新米役者にしか見えなくなる。
 
戦国武将・毛利元就の人気薄の理由

 戦国武将として人気が高いのは、武田信玄や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を筆頭に上杉謙信、真田幸村などで、かれらの名前はすぐ挙がるが、毛利元就の知名度は今一つといったところがある。 先年のNHK大河ドラマ『毛利元就』を見ていても、ドラマティックな場面が少なく、普通のよき父親の生涯のような単調なドラマに終わった感がある。戦国武将として武田信玄や上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉のようなドラマ性にかけるのかも知れない。
 しかし実際の元就は、生涯に200を越える合戦に出陣していて、席の暖まる閑もなく戦をしていたことになる。これは他の戦国武将と比べて驚くべき数字である。合戦シーンが作れないのではなく、あまりにも多すぎてドラマにもならないほどである。
 毛利元就という戦国武将が、日本人にあまり受けない最大の理由は、たぶん彼の性格に起因するところが大きいと思われる。
 彼ほど正統的な兵法に通じていた武将は希で、そのために調略によって勝つことを最大の勝利と考えていたことで、派手な日本人受けする合戦などがすくない。調略による勝利などは日本人受けしない。用意周到に奸計を張り巡らし、あっという間に勝機をつかむ。これがドラマとしては面白くないのだ。実に地味な武将に見える。
 奸計を確実に成功に導く最大の要因は、敵味方に常日ごろから誠実で地味で裏表のないような人間であることを刷り込んでいくことに尽きる。 あの元就殿がいうことだから、本当に違いないと敵味方に信じ込ませることだ。それがなければ、敵など欺けない。そういう思いこみを常日ごろから作り上げる努力が元就にはある。餅が好きな家臣には餅を馳走し、酒が好きな家臣には酒のメリットをとくとくと語り酒を馳走する。すべての家臣に直接面会し、話を聞いてやる。傷を負った家臣の手当てをしてやる。実にきめ細かな人間関係を作り上げている。そしてそういう風評は人伝に、他国にも伝わる。それよりなにより間者として入り込んでいる側近を泳がし、そこから敵に情報が流れていく。元就は百も承知なのだ。
 刀で敵を平らげるのは凡将であって、知略によって敵を平らげられる武将こそ、第一級の武将というものである。それを実証している人生こそ、元就の生涯なのだが、しかしそれが日本人受けしない。
 桜の花の散り行くはかなさを好む日本人の心性には、織田信長や真田幸村のような一直線に散っていく武将があうのだろう。毛利元就という人間は、あまりにも深遠で知略に優れ、そのためにうわべの人生は、地味で誠実で派手なところがない。 愛妻家で子煩悩な親父にしか見えない。
 
精力絶倫男・毛利元就

元就に対するイメージのひとつに、正室妙玖に対しては愛妻家で、家庭を大切にする実直な父親としてのイメージがあるようである。しかし元就の年譜や元就の子供たちを見てもらえればわかることだが、元就にはわかっているだけでも12人の子供たちが確認されているのである。末子の秀包が誕生したのはなんと元就71歳のときである。普通の男では、こんな芸当は無理だ。  たしかに正室との間には、男女合わせて5人をもうけていて、隆景の次の弟元清が誕生するまでほぼ18年間ものブランクがあるが、その後は次々に子供を量産しているのだ。もっとも正室が存命中にも、すでに他の女に手をつけていて、正室に遠慮したのか、妊娠七ヶ月の身重の身ながら家臣に払い下げているのである。その子が二宮就辰である。後年元就の落胤であることが輝元に知れ、輝元の側近として活躍していく人物である。  
  元就の居城郡山城周辺には、薬草が多く観察できるというが、これは元就が漢方薬の知識に通じていて、意図的に栽培させていた可能性がある。元就の健康への気づかいは並々以上のものがある。当時すでに薬草の効能については、知りつくされており、勃起促進剤として有効な薬草もある。元就も密かに『漢方バイアグラ』らしきものを使用していたのかも知れない。  隆景誕生後の18年間ものブランクが、正室妙玖に対する遠慮だったとしても、正室亡き後の元就の行動から邪推すれば、18年間という男盛りの最中に何もしていないということは考えにくい。たたけばもっとほこりが出てくるかもしれない。
 
篤実なマキャブェリストとしての毛利元就

 数ある毛利元就に関する書物の中で、毛利元就の人間性について言及しているものは少ないが、その中で最も的確に彼を表現しているのは、海音寺潮五郎氏であろう。
 彼はその著『武将列伝2』の中で毛利元就について書いた章で次のように人間元就を評している。
 『彼を一語にして表現すれば、戦術家としては反間の名手、政治家としては篤実の面をかぶったマキャブェリストであるが、その篤実ぶりに決してボロを出さなかったのだから、真実な篤実さもあったのだろうし、周到な人柄でもあったのであろう。』(文春文庫版280ページ)
 このような人間元就像に反感を抱く人々は、円熟期の元就が息子たちに当てた膨大な手紙類から作り出された元就像が基本にあるのかもしれない。 その中で、元就は愛妻家で、一族の結束を説いたり、配慮深い人間に見えてくる。
 しかし元就にとって正室妙玖は、毛利一族の存続を謀る上で、元就の三兄弟結束のためのシンボルとして利用された意味合いの方が大きい。 そして彼のこと細かい配慮は、すべて毛利氏存続という至上命題に従っていただけに過ぎない。その至上命題に適えば、存在を許されるが、抵触すれば存在を許されない−それが元就の判断の基準であったろう。だからといって、このような家中心の考え方を現代的価値観から批判したところで、意味などない。
 とにもかくも、毛利元就という武将は、親や兄弟を蹴落として主家を継いだ、武田信玄、上杉謙信 そして織田信長と比べてみても、遜色のないどころか、表面的な篤実さによってその行いを被い、自分のイメージを傷つけないという点では、彼らを凌駕すること間違いない。その意味で日本史上類いまれなるマキャブェリストだったと言える。
 

元就の真のすごさは、彼の始末のつけ方にあり

 毛利元就という人間の真の非凡さ、怖さ、凄みというのは、作家の観音寺潮五郎氏が形容しているように『篤実なるマキャヴェリスト』にあるわけだが、その例を2、3私なりに指摘してみよう。真の冷酷さというか冷徹さというものが、いかなるものかお分かりになれるであろう。
 場所は、現在の下関市である。そこに巧山寺という由緒あるりっぱな寺がある。歴代長府藩主の菩提寺として手厚く保護されてきた寺である。
 時は、1557年の春である。
 戦国史上名高い厳島合戦で陶晴賢を破った毛利元就は、そのまま大内氏の領地周防、長門の征服に進軍する。 次々に周防、長門の大内方実質的には陶の支配下の城を落とし、陶晴賢に擁立されていた傀儡主君の大内義長と側近の内藤隆世がろう城していた勝山城を包囲する。
 元就は本陣を防府市の天満宮大専防に構え、毛利一族で重臣の福原貞俊に約4000の兵をあずけ、勝山城を包囲させた。しかし城はなかなか容易には落ちそうでないので、元就は福原貞俊に指示をさずけた。
 福原貞俊は、城内に矢文を打ち込んだ。それによれば、大内義長は陶晴賢に据えられた単なる傀儡の君主だから責任はないので、助命するが、内藤隆世については切腹し、開城せよとの条件である。
 単なる傀儡とはいえ、大内義長も九州の大大名大友宗麟の弟である。宗麟の反対を押し切ってまで自己の意思で大内家の当主となった人物である。覚悟はできている。義長は、内藤隆世だけに責めを負わせることはできないと拒絶するが、 内藤隆世は義長を説得し、城を降り、大内義長は近くの巧山寺に入る。大内義長はこれですべてかたはついたものと思っていたに違いない。
 しかし元就はそんなに甘い人間ではなかった。
  大内義長のいる巧山寺を福原貞俊の毛利軍は囲んだのだ。ここに至って初めて事態を飲み込んだ大内義長は、如何ともせず自刃する。
 以上簡潔に元就のやり方を見たが、このどこがすごいのかということだが、大内義長が自刃するように仕組んだところがすごいということだ。つまり、内藤隆世については、はっきりと敵方の武将として消す。しかし大内義長については、騙して寺に追い込んだ上、そこで自分から切腹してしまうような筋書きに仕立て上げていることだ。その上、さらに手の込んだ筋書きにするために、元就は義長を実家の大友宗麟のところに送り届ける用意があるとまで言っているのだ。当然宗麟がそんな女々しいことを受け入れることなどないことを承知の上で。
 たとえ名目上にせよ、元就にとっては主君としての大内義隆の後継者としての大内義長には直接手を下さない。手を下せば元就の陶晴賢成敗の大義名分が立たない。陶晴賢を成敗する大義名分とは、主君大内義隆のあだ討ちだからである。大内義長に直接元就が手を下せば、大内義隆あだ討ちの大義名分が立たなくなる。
 大義名分が立たなければ、いわゆる『公儀』が成り立たないからである。『公儀』が成り立たなければ、毛利家中のみならず、国衆ならびに毛利軍全体、さらには周防、長門の領民に対しての支配の正統性の根拠がなくなってしまうからである。単なる力だけで人を治めることができるなどと思ってはいけない。いつの時代でも権力にはその正統性、Legitimacyというものが必要なのだ。
 大内義長は、自分から勝手に自殺してしまったことになったわけだ。こうして名実ともに大内家は滅亡した。だから大内義隆の仇討ちをした毛利氏が、大内家に代わってこの地を治める、とまあこんな按配だ。
  これが正真正銘の『マキャヴェリスト』である。


 もう一つ、元就の陰湿な策略を紹介しよう。
 毛利氏の北方に高橋氏という強大な勢力があった。高橋氏は、元就の兄興元に正室を入れ、毛利氏と姻戚関係にあった。当時の毛利氏と高橋氏の力関係は、圧倒的に高橋氏が上であった。石見から安芸国にかけて勢力を広げていた。兄興元が死亡し、跡を嫡子の幸松丸が2歳で家督を継ぐが、当然家政は見られないので、元就が後見することになる。しかし、実際には幸松丸の外祖父にあたる高橋久光が毛利家の家政に容喙して実質的な後見役となっていた。元就としては、高橋氏の圧力の前に如何ともし難く絶えるしかなかった。
 その幸松丸も1523年の尼子経久の鏡山城攻略から帰るとぽっくりと死んでしまう。それで元就に毛利家家督の幸運が巡ってくるわけだが、それから6年後の1529年、積年の恨みを果たすべくいよいよ高橋氏攻略に乗り出すことになる。
 しかし当時の当主は高橋久光の息子で興光(高橋氏の家系は諸説ある)で、なかなかの武者であったので、容易には元就といえども討ち取ることは難しかったに違いない。
 そこで、元就は、興光の従兄弟で鷲影城主だった盛光を利用することにした。盛光が思慮に乏しく、強欲であったことを見ぬいていたのである。その盛光に対して元就は次のような内容の文を送りつけた。
「兄弟は他人 のはじまり、義理の兄弟はきゅう敵のはじまり、このままでいると興光のために、盛光の所領は奪われてしまうだろう。ここで興光を討ち取れば、興光の所領を余部与える。」(美土里町史より)
 これにまんまんとかかった盛光は、兵を率いて興光の本拠藤掛城へ出兵する。当時興光は、父久光以来の仇敵であった備後の三吉氏の支城を落城させて、藤掛城へ凱旋するところであった。それを聞きつけた盛光は先回りして、藤掛城近くの川原で待ち伏せし、盛光の兵が通り過ぎていこうとする時を狙って襲撃した。興光側は戦いの疲れと凱旋の気分で劣勢に陥り、ついに力尽きて近くの岩の上で自刃して果てた。
 盛光はやったとばかり、興光の首を携えて、元就のもとへ掛けて行く。
 しかし首実検の場へ掛けつけて、元就からの褒美を期待していると、元就の指図どおり、今度は盛光の首を貰い受けると言い放たれる。盛光はやっと元就に騙されたことを悟ったが、時はすでに遅かった。何とかその場を逃げて、藤掛城目指して犬伏山というところまでたどり着いたとき、毛利勢の者たちに捕らわれついに首をはねられてしまった。 いまでも犬伏山山中には、盛光の首塚と伝えられている場所がある。数本の椿の木が目印となっていて、傍らには数個の石が散在している。
 因みに犬伏山の名前の由来は、 盛光が元就のもとに興光の首を携えてきたとき、「汝盛光よ。大九郎興光とは切っても切れぬ骨肉の間柄、いかに毛利公の指示とはいえ、これを不意討ちにするとは不届至極、武士の風上にもおけぬ犬武士である。毛利公の命により、汝の一命もらい受ける。」(美土里町史から)と言われた一節に由来しているのである。
 盛光にしてみれば、とんだとばっちりを食ったことになる。それにしても、元就の策の用い方というのは、若いときから一貫してこのような人間の性格や欲を利用する情報戦であって、騙されるほうも思慮が確かに足りないのかも知れないが、騙す側の元就、尋常な人間ではなかったのは確かである。


続く・・・・









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