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元正寺   山口県大島


もともとは大龍寺といって、戦国時代末期、瀬戸内水軍の頂点にあった能島村上水軍の村上武吉の菩提寺であった。
 村上武吉は、三島村上水軍の総帥として村上水軍全体の動向を左右し、因島村上水軍、来島村上水軍などが陸の大名の支配下に早くから属して生き延びる道を選択したのに対して、最後まで自由な海の人間らしく大名権力に属することを拒んだ。
 厳島合戦では、毛利元就に与力し、陶軍壊滅に寄与し、この地周防大島を与えられている。
 しかし完全に毛利軍の指揮下に入ることはなく、独立した海の大名として行き続けようとしたようであるが、豊臣秀吉の時代になると、秀吉の海賊禁止令によって、完全に瀬戸内水軍の総帥としての立場から追放されることになる。
 村上武吉は、織田信長、秀吉の懐柔にも最後まで従わず、毛利氏に味方したことから、秀吉に徹底的に嫌われたらしく、海賊禁止令が発布されてからは、毛利氏とくに小早川隆景を頼って、各地を転々としていった。
 秀吉が海賊禁止令を発布した以降も瀬戸内で海賊行為を行っていたとことから、秀吉が激昂し、村上武吉の首を要求し、家臣の浅野氏が鞆の浦まで使者として来たこともあった。その時も小早川隆景の必死の取り成しでどうにか首はつなぎとめることができたようである。
 小早川隆景が筑前に移封されると、武吉も筑前に移るが、秀吉が朝鮮攻めで名護屋城に来城するにあたっては、秀吉の目障りになるということで、わさわざ長門の寒村に移住させることまでした。そこまで秀吉に撤退的に嫌われていたようである。
 秀吉が死んだことで、ようやく気兼ねすることなくなったようである。
 晩年は、毛利氏の長州転封に従い、この地周防大島に千石余の窮地を与えられ、次男景親が村上家の当主として父武吉を支えていた。しかし多くの家臣を養うことはできず、家臣の中にはもとの瀬戸内の島々に帰り、帰農したり漁民になったりするものも多かったと言う。この和田の地を選んだのは、故郷能島の風景にどことなく似ていたからとも言う。
 1604年、戦国時代末期に瀬戸内水軍の棟梁として恐れられた村上武吉は和田の海が見えるこの地で永眠した。菩提寺と墓は次男景親が建立。
 武吉の墓と並んでいる妻の墓があるが、これは武吉にとっては三人目の妻の墓である。最初と二番目の妻は、姉妹でどちらも来島氏の娘たちで、能島の高龍寺に葬られている。
 武吉の嫡男村上元吉は、関が原の戦いの際、伊予国奪回の戦に出陣、松前城攻めの際戦死している。元吉の墓は、当時の居城跡鎮海山城跡(広島県竹原市)の山麓にある。元吉亡き後は、元吉の嫡男が幼かったためか、次男の景親が村上家の実質的な当主として村上家を支えていたようである。
 江戸時代の毛利氏の下で、村上氏は、元吉の嫡男元武の系統と景親の系統の二つに分かれて、それぞれ長州藩の御船手組として寄組に組み入れられた。
 
 嫡男元吉を天下分け目の戦で亡くした海賊大将武吉は、この地周防和田で僧籍に入り、最後を迎えたと伝えられている。
 自由奔放な生涯を貫いた海の将は澄み渡る瀬戸内の海の中に何を思いながら旅立っていったのだろうか。



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