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常楽院跡  鹿児島県日置市
 
伊作島津氏の居城亀丸城から数キロ北西に行ったところに中島常楽院跡という寺院跡があります。今では廃れた感のある家屋があるだけのように見えます。
 しかしそれでも今尚毎年10月にはこの寺院跡で、妙音十二楽とよばれる古式ゆかしい雅楽の演奏が行われています。
 この常楽院は、社伝によれば、島津忠久が薩摩に下るとき、源頼朝の命を受けて伴に下向してきた盲僧宝山検校が開山したことになっています。そのとき以来琵琶を薩摩に伝え、薩摩琵琶として発達したと言われています。
 ところで、検校とは盲僧たちのギルドの最高位の地位のことです。座頭も盲僧ギルドの職位です。宝山検校とは 天台宗常楽院の19代住職で、薩摩に下りこの地に常楽院を建立した人です。
 盲僧の人々による組織は一種のヨーロッパのギルド的組織として発展していったようで、江戸時代には惣録検校という盲僧ギルドの頂点になると、大名並みの権力を持っていたともいわれます。
 この常楽院はただの変哲のない普通の寺のようですが、実は島津氏は、盲僧、山伏などとのかかわりが深く、彼らの力を大いに利用していたようです。薩摩琵琶を演奏しながら、国中を廻る一方では、各地の情報を逐次収集して歩いているわけです。盲僧や山伏の一つの働きは、この情報収集にあるわけです。
 この常楽院が伊作島津氏の居城の近くに位置しているのにもそれなりの理由があると考えたほうがいいと思います。伊作島津氏、特に島津氏中興の名君と仰がれた島津忠良は、少年期は城の近くの海蔵院で教育をうけていますが、この海蔵院は、奈良の興福寺系統の寺院です。興福寺の系統には根来衆がいます。彼が、薩摩半島の小さな領主から一気に三州統一へ動き出せたのは、実は彼の背後に協力していた寺院勢力があったと見ています。彼はこの寺院勢力と協力しながら、三州統一へと動き出せたのだろうと思います。
 常楽院の盲僧たちは、島津氏に各地の豪族たちの情報を収集し、時にはかく乱することなどもしたでしょうし、そうして島津氏に協力し、見返りとして経済的支援を受けていたようです。
 この常楽院は、その後島津氏が鹿児島へ本拠を移すと、それに合わせるかのように、鹿児島へ移ります。この動き一つとっても島津氏と一体とみていいでしょう。


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