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白鳥神社  宮崎県えびの市

白鳥神社の由来については、性空上人が960年ごろに霧島にやってきて、この地で修行。その折白鳥が現れて、ヤマトタケルの化身であることを告げたと言われます。性空上人はこの地に神社を創建し白鳥権現を奉ったということです。
 性空上人がこの地に来たいきさつは余りはっきりしませんが、一つには橘氏であった父の死後、母が日向出身だったこともあり、母と供にこの地に下ってきたとも考えられます。
 また、古代よりこの地は、山岳信仰のメッカで、山岳信仰に通じていた性空がこの地に修行のためにやってきたとも考えられます。えびの市にある《クルソン》渓谷には、中国から帰ってきた栄西が、わさわざ訪ねてきていますので、この地域一帯の山岳信仰につながる宗教的バックグラウンドが強かったことは推測できます。
 この神社がヤマトタケルとつながりをもったのは、景行天皇とその息子ヤマトタケルが熊襲征伐にこの地にやってきた伝承があり、この点でヤマトタケルを祭神とした経緯があるかもしれません。
 祭神がヤマトタケルということで、昔から軍神の神社として奉られてきました。
1572年の島津氏と伊東氏との合戦《木崎原合戦》のおり、この白鳥神社の住持、光厳法印とその手下の者が大活躍しますが、それもこの神社と戦いとの因縁があるからです。当時の白鳥神社は神仏混合の状態で、おそらく戦国時代末期の僧侶たちに見られるように、寺院施設と言っても、実態は僧兵も多くいた事だろうと推測されます。
 光厳法印という人物は、いわば島津氏の軍事顧問です。近代のように職能が細分化されていない時代のことですから、軍事と政治と宗教と学問が一体化していたと考えていいと思います。軍事顧問といえば語弊がありますが、光厳法印なとば、そうした中世知識人の代表的な人物だったと思われます。


写真左は、日清戦争の時の戦艦が使用していた砲弾で、軍神の白鳥権現に奉納されているものです。重さ80数キロあり、ちなみに私は一人では持ち上げることは出来ませんでした。これを持ち上げることが出来れば神の加護が賜れると言うことです。

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