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総禅寺  鹿児島県姶良町


 総禅寺は、島津季久が菩提寺として建立した寺です。
 島津季久は、第8代久豊の三男で豊州島津家の祖になります。代々豊後守を呼称していたことで豊州島津家と呼ばれていました。第9代忠国の命によって、平山氏を下し、現在の姶良町帖佐に瓜生野城を築城し居城しました。
 島津季久は島津本家第11代当主島津忠昌に反抗する動きも示し、一時は11代当主島津忠昌を鹿児島から追い落とすほどの勢力をもちますが、晩年は島津氏一族の結束を痛感したのか、島津忠昌に対して忠誠を使い許されたと伝えられています。
  1477年8月6日65歳で病死。死亡当時この総禅寺は未完成の状態で、季久の遺骸は近くの雲門寺に葬むられ、完成後にこの総禅手にに改葬されたといいます。
 またこの総禅寺には、肝付氏第12代の肝付兼忠はの嫡男肝付国兼は、父と不和になり、弟兼連と父との結託によって本城の高山城を放逐され、ここ総禅寺を頼ります。最後はこの総禅寺で自害して果てたと伝えられています。しかし今は彼の墓も定かではありません。
 寺には島津義弘の長女で《御屋地さま》と称された息女の墓とその夫島津朝久の墓もあります。島津義久の弟で、秀吉の命によって兄義久に打たれた島津歳久も、初めはこの総禅寺に墓が建てられようですが、その後兄義久と義弘の計らいで、心岳寺が建てられ、そこに改葬されます。歳久最初の墓跡は今でも確認できます。
 明治時代の廃仏毀釈のために、今では寺としては跡形もなく破壊され、その敷地の一部が墓所として残されているだけです。

関連情報
薩摩紀行―島津氏系図
薩摩紀行―肝付氏系図




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