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大山祇神社   愛媛県大三島


大山祇神社は、古来より海の神として瀬戸内の海の民たちの信仰を集めてきたのみならず、全国の武将たちが数々の鎧や刀剣、弓などを奉納してきた神社として日本でも類まれな神社として知られている。
 有名なものでは、源頼朝の鎧、源義経の鎧、木曾義仲の鎧、木曾義仲の愛人巴の薙刀、弁慶の薙刀など、歴史的に有名な人々の奉納品が所狭しと展示してある。
 そして大三島の伝説的人物となっている『鶴姫の鎧』は日本で唯一の女性用の鎧として国の重要文化財に指定されている。鶴姫の伝説については、歴史再発見コーナーでも取り上げているので、そちらもご覧下さい。
 大山祗神社の祭神は、『伊予国風土記』によれば『和多志の神』と言い伝えられているが、これは『渡しの神』と一般に解釈されていて、渡しとは、つまり瀬戸内海の流れの速い海峡を航行する船を警護してきた人々にとっての信仰の対象であった可能性がもっとも高い。つまり海の民にとっての守り神を祭った場所と言える。
 しかし、単に瀬戸内海だけの航海を意味しているのではなく、広く朝鮮半島との交通から中国大陸、伊豆諸島など外洋への交通に従事していた人々と考えた方が妥当であろう。
 そしてこの海の民にとっても最も重要な神がなぜ伊予の国に祭られているかという理由については、伊予の国こそ、実は大和の国、京など近畿と大陸への道へ開けている北九州との結節点にあたる場所であると考えられるのである。
 源義経は伊予守であったし、木曾義仲も伊予守であったし、京の公家西園寺家も長い間伊予国に執着し、この地を私領地として在地支配していた。そして藤原純友も伊予国の日振島を根城にして北九州大宰府で最後の決戦を挑んでいった。
 彼らの意識の背景にあるのが、近畿から北九州、そしてその先に控えている大陸へと視点が伸びているのであって、伊予国は近畿から北九州へ至る海の道の重要な中継点として考えられていたと推測されている。伝説の人物・聖徳太子(聖徳太子は蘇我馬子であるというのが最近の有力な説である)でさえ、伊予の道後温泉に来ていたことは案外知られていない。
 伊予国とは、聖徳太子の時代より、非常に重要な意味合いをもってきた国だったと言える。
 古くからの日本と東アジアとのダイナミックな関係を視野に入れないと、この神社のもつ歴史的意味は見えてこないだろう。
 


中世には、伊予国の豪族河野氏の家臣でもあった大山祗神社職の大祝氏が代々支配してきた。それ故、河野氏関係の史跡、奉納品が多数を占めている。
 河野氏の祖は、越智氏であり、現在でも愛媛県には越智郡という地名が残っている。この越智氏のルーツもはっきりしていないが、越智郡は他の地域とは明らかに異なる傾向をもつ考古学的遺物が出土するところとして知られているので、大陸との関係が考えられる。
 河野氏は、長宗我部元親の四国統一によって、長宗我部氏の配下に下ってしまう。その後豊臣秀吉の四国平定の際には、伊予に上陸した毛利軍の標的にされてしまうが、水軍を通じての毛利氏と河野氏とのそれまでの関係から、小早川隆景が『越智氏の命脈を保つように』との計らいで、最後の当主河野通直に投降を勧告し、居城湯築城を明渡している。
 河野通直は、その後小早川隆景を頼り、竹原に住まい、数年後には病死してしまう。名族河野氏の最後であった。墓は広島県竹原市の長生寺に所在している。 

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