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洞光寺   島根県安来市広瀬


洞光寺は、尼子清定、経久(1458-1541)父子の墓所がある、尼子氏ゆかりの寺院である。
 尼子氏は、出雲の守護京極氏(佐々木氏)の一族で、近江の尼子郷を本拠としていたことから尼子氏と名乗るようになる。京極氏は、バサラ大名で知られている佐々木道誉の家系である。
 京極氏の守護代として、経久の祖父持久の代に出雲富田城に在城し、在地経営を代行するようになったと言われている。
 しかし次第に、守護の京極氏の領地や財を押領し始め、在地の実質的な支配者として戦国大名化への道を進むようになる。
 経久の代になると、守護の権限を無視することはなはだしかったため、本家の京極氏に守護代の職を剥奪され、富田城を追放されるという悲運に見舞われる。
 富田城を追放された経久は、一介の浪人の身から、月山富田城を奪回することに成功する。1486年、経久29歳のときである。
 これ以後、経久は、山陰、山陽11ヶ国の太守にまで登りつめ、掛け値なしの下克上の戦国時代を代表する大名となる。
 しかし、晩年は、嫡男正久を戦死させたり、三男興久に謀反されたりと、尼子氏の将来は決して安堵できる状況ではなかった。
 経久の家督は、正久の嫡男晴久に受け継がれていくが、とても経久ほどの器量もなく、新興勢力の毛利元就に着実に弱体化させられていくことになる。戦国大名尼子氏の名声は、経久一代50数年間の隆盛の賜物といえよう。
 尼子経久と父清定の墓は、月山富田城を見上げるかのように、静かに鎮座している。

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