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永興寺   山口県岩国市



永興寺の開山ははっきりしないが、大内氏が周防大島の一部を寄進していることから、戦国時代後期には、大内氏の庇護を受けていたと思われる。

 厳島合戦の際には、陶晴賢がここに布陣し、厳島への渡海について軍議した場所である。当時、この地は、大内氏の重臣で厳島合戦で最後まで奮戦した弘中隆兼の領地であったことから、弘中氏との関わりが深かった寺と推測できる。
 その弘中隆兼は、大内氏重臣の中では知将として聞こえ高く、厳島へ渡海して毛利軍と戦うことは、毛利元就の策に嵌ることだからと、ただ一人反対したと言われている。しかし他の血気はやる重臣たちの意見に押され、半ば負けを承知の上で、厳島へ渡海していったという。
 厳島合戦に勝利した毛利元就は、郡山へ帰参することなく、ただちに周防、長門の征伐に取り掛かるわけだが、その基地として布陣したところも、ここ永興寺である。
 周防征伐の最大の関門、現在の徳山市の須々万城攻撃のさいには、この永興寺から毛利隆元率いる約4000の兵が出陣していったという。
 この地を平定したあと、永興寺は、桜尾城城代であった桂元澄の三男元親の菩提寺として毛利隆元より与えられている。

  現在は、吉川氏の城下町の雰囲気が残る一角に静かな借景を取り入れた寺として観光客の目を楽しませてくれている。
 この美しい紅葉の色づく場所で、幾多の血なまぐさい軍議が交わされたことなど、想像することなど難しい。



なお、この記事に関して、岩国の吉岡さんという方より寺の歴史に関する貴重な資料が寄せられましたので、下記に原文のまま掲載します。

七百年の時を伝える古寺浪漫
不動山 永興寺

永興寺開山 佛国国師
後嵯峨天皇の皇子。16歳で出家。無学祖元禅師を師とした。永興寺を開山。その後禅僧にとって最高位、建長寺の住持。76歳で座禅のままのお姿で入寂された。

永興寺の歴史
起こり
永興寺は今から約七百年前、鎌倉時代1309年に大内弘幸によって開かれた岩国随一の古刹です。大内氏のその莫大な財力は、対外貿易と和寇よりの上納品の蓄積によるものと言われています。

官寺(幕府の保護管掌にある寺)
大内弘幸の子、弘世は、父の菩提を弔うためと、領地の東の端で人の目につきやすいことから、七堂伽藍を立派に整備しました。また、幕府に申請して官寺に列せられました。官寺とは幕府の保護管掌下にある寺で、その地方で最も格式の高い寺のことです。寺領も横山、川西、大島郡の北方、田布施の佐多、生野までおよびました。

大内氏滅亡から毛利氏へ
大内義隆は重臣陶晴賢のそむくところとなり、長門大寧寺にて自刃し、弘世以来二百年に及ぶ、大内の繁栄は終焉を告げたのです。その後、陶晴賢が大軍を率いて岩国に着陣、永興寺で軍議を開いて厳島渡航を決めました。しかし、毛利軍が厳島の合戦において奇跡の大勝利をおさめ、陶晴賢は自刃し陶軍は絶滅したのです。わずか一月後には、毛利元就が本営を永興寺に置き、防長二州攻略に着手しました。毛利輝元は永興寺に五百石余りを寄進し、毛利氏の手厚い保護のもと、寺は順調に維持経営されていました。

吉川氏による永興寺受難
関ヶ原の合戦後、吉川広家が岩国に入封するにいたり、永興寺としては致命的な受難に遭遇したのです。広家の自領統治の第一歩は、その当時横山のほぼ全域に広がっていた永興寺境内地の収奪と境内建物の城塞、居館への解体、転用でした。「御打入り」と称したその名の通り、領主権を楯にとっての戦場同等の行動でした。 また、永興寺の釈迦三尊は仏殿ごと、黒田家の菩提寺である博多の崇福寺に移されています。釈迦三尊の胎内には永興寺名と施主大内弘世の名前等が陰刻されており、この事実を物語っています。

永興寺を再建した周伯和尚
後に第五十三世となった周伯和尚が来岩され、開山堂のあった境内の一角に永興寺は再建されました。周伯和尚は吉川広家の長兄、元長の法友で熱心に二人で参禅した昔を懐かしみました。寺は尊厳な浄域、戦火がおきても安全であると出陣に際し貴重な書籍を預けた元長。それが弟広家に踏みにじられようとは。
 永興寺は明治維新とともに寺碌を失い、伽藍を縮小して今日に及んでいます。


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