永興寺 山口県岩国市 |
永興寺の開山ははっきりしないが、大内氏が周防大島の一部を寄進していることから、戦国時代後期には、大内氏の庇護を受けていたと思われる。 厳島合戦の際には、陶晴賢がここに布陣し、厳島への渡海について軍議した場所である。当時、この地は、大内氏の重臣で厳島合戦で最後まで奮戦した弘中隆兼の領地であったことから、弘中氏との関わりが深かった寺と推測できる。 その弘中隆兼は、大内氏重臣の中では知将として聞こえ高く、厳島へ渡海して毛利軍と戦うことは、毛利元就の策に嵌ることだからと、ただ一人反対したと言われている。しかし他の血気はやる重臣たちの意見に押され、半ば負けを承知の上で、厳島へ渡海していったという。 厳島合戦に勝利した毛利元就は、郡山へ帰参することなく、ただちに周防、長門の征伐に取り掛かるわけだが、その基地として布陣したところも、ここ永興寺である。 周防征伐の最大の関門、現在の徳山市の須々万城攻撃のさいには、この永興寺から毛利隆元率いる約4000の兵が出陣していったという。 この地を平定したあと、永興寺は、桜尾城城代であった桂元澄の三男元親の菩提寺として毛利隆元より与えられている。 現在は、吉川氏の城下町の雰囲気が残る一角に静かな借景を取り入れた寺として観光客の目を楽しませてくれている。 この美しい紅葉の色づく場所で、幾多の血なまぐさい軍議が交わされたことなど、想像することなど難しい。 |
なお、この記事に関して、岩国の吉岡さんという方より寺の歴史に関する貴重な資料が寄せられましたので、下記に原文のまま掲載します。 七百年の時を伝える古寺浪漫 不動山 永興寺 永興寺開山 佛国国師 永興寺の歴史 官寺(幕府の保護管掌にある寺) 大内氏滅亡から毛利氏へ 吉川氏による永興寺受難 永興寺を再建した周伯和尚 |
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