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島津義久館跡 富熊城跡



富熊城は、島津義久の隠居所跡である。鹿児島県隼人町に所在する。
 島津義久は、16代島津氏の当主で、島津氏を九州を席捲するほどの戦国大名に押し上げていったことでよく知られている。
 義弘、歳久、家久という稀に見る優秀な弟たちの協力を得、九州全土を制圧するほどの勢いまで示すが、全国制覇を掲げる豊臣秀吉の前に屈服せざるを得なかった。1587年のことである。
 島津氏の勢力分断を画策する秀吉は、意図的に薩摩国を弟の義弘に、大隈国を義久に与えることで、弟の義弘を秀吉の政権内に取り組んで、義弘を島津氏の代表として動かしていこうとする。
 このあたりの事情から、義久の次の当主として、弟の義弘が17代島津氏の当主として誤解されているものが多いが、義弘は島津氏の当主にはなっていないのである。義弘の次男が義久の養子として17代当主になり、徳川家康から一字を頂戴し家久と名乗り、江戸時代最初の当主となるのである。義久は男子には恵まれなかったからである。

このように、秀吉の島津氏分断政策の影響を受けた形として、この富熊城があるのである。島津氏の本拠地は現在でもそうであるように、薩摩半島の鹿児島であるが、薩摩は秀吉によって弟の義弘に与えられたものだから、義久は仕方なく大隈のこの地に隠居せざるを得なかったと言えよう。
 この富熊の地は、錦江湾に面していて、本拠の鹿児島は遠くに展望できることから、隠居しても実質的に島津氏の当主として采配を振るっていた当時の義久が、きわめて政治的な観点から選択した要地であったのであろうと推測できる。

関が原の戦いで中央突破戦法でからくも帰還してきた弟の義弘が、義久に面会した場所もこの富熊城である。義弘の度重なる援軍要請にも応じず、ほとんど孤軍奮闘の状態に追い込んだ兄義久はどんな思いで、弟義弘に面会したことであろうか。この城跡に佇んだとき、そのときの兄弟の思いが、幾たびも浮かんできた
 義久は、この後、義弘の次男家久に自分の末娘を嫁がせる形で養子として家督を譲り、自身は国分の舞鶴城に隠居し、生涯を閉じることとなる。







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