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戦国領主の山城の変遷−平賀氏の場合


 平賀氏は、もともとは源氏一族で、頼朝を支えた有力な関東御家人の一族であったが、北条執権確立後は、もっぱら出羽国平賀郡に基盤を置いていた一族である。1274年の文永の役(元寇)を契機に出羽国平賀郡から安芸国高屋保(現在の東広島市高屋町一帯)へ新補地頭として入国して以来、関ヶ原の役による長州移転までの約300年余の長いあいだこの地方に君臨した戦国領主である。毛利元就の有力な国衆の一族でもある。

それでは、その平賀氏を例にとって、山城の変遷をみてみましょう。




第1期−居館としての砦

 その平賀氏が安芸国に入国して最初に居城としたのが、東広島市御薗宇に所在する御薗宇城である。現在広島県史跡に指定されている。
  この城の築城は、平賀惟長の時代に築城されたものと推定されている。城跡は周囲の田畑より約20メートルの高さにそぴえ、木や竹がおいしげる幅70メートル、長さ100メートル余の丘である。型状は「土居の内」形式で、砦と居館との分離が完全に行われていない、城の初期形態の典型を示している。
  しかし、このような砦でも、1403年から3年間、安芸国守護山名満氏による包囲戦を勝ち抜いている歴史を持ち、現在の城跡の姿からは想像しがたい。城跡の居館跡と推定される平坦地は、長い間農地として使用されており、残る石垣も農民によるもので、現在は頂上部の竹林を残すのみとなっている。


第2期−室町時代における経済的拠点としての砦

 平賀氏の第2期の居城は、現在の東広島市白市に所在する白山城である。現在広島県史跡に指定されている。平賀氏中興の祖、平賀広保によって築城されたものである。

 白市は、同時に市場町として栄えていた街であるが、その基礎はひとえに平賀氏によるものである。平賀氏は室町時代から発展してきた貨幣経済の流れに合わせ、拠点を新しく比高約200メートルほどの本格的な山城に移し、その麓に武家屋敷を作り、家臣たちを集め、同時に貨幣経済を促進するために商人たちの掌握に務め、市を開かせた。 これが白市の始まりとなったわけである。白市はJR山陽本線沿いに位置し、昔の街道沿いに栄えた宿場町であったが、現在は新興住宅団地として周辺が開発され、昔の面影も少なくなりつつある。


第3期−戦国末期の本格的要塞としての砦

 戦国末期になり、戦闘が日常茶飯事になるのに合わせ、城も要塞化していく必要があった。平賀氏が最後に築城した城が、頭崎城である。現在広島県史跡に指定されている。
 平賀広保の嫡子興貞により1523年頃に築城された。標高502メートルの急峻な山で、頂上に人工的に平坦地を作り、それぞれの曲輪を独立させ、広範囲に渡ってそれぞれの曲輪を連携させている城郭と呼ぶにふさわしい城である。
 この城が築城された頃は、すでに山陰の尼子氏の勢力が山陽地方にも及びはじめていたため、この城は尼子氏と大内氏との戦線の中にさらされた。
 平賀氏の場合、惣領としての平賀広保は、城山城に在城し、この頭崎城には、もっぱら嫡子興貞が在城していたが、興貞が尼子方に付き、父広保が大内方に付いて、一族相争った。そんななか1540年、大内方に付いた毛利元就が、この城を包囲し、興貞を降ろした。これが頭崎合戦である。興貞は、僧籍に入り竹林寺に入山することになる。興貞の跡は、興貞の嫡子平賀隆宗が相続し、毛利元就の与力として備後神辺城攻略で奮戦し、戦死するまで活躍していくことになる。
 
 このように、鎌倉時代の武家政権の在地支配者として入り込んできた武士たちは、はじめは館と砦が機能的に未分化したような城を拠点として、周辺の荘園経営を押し進めていくが、次第に時代の趨勢にあわせて、城下町を形成したり、市場町を発展させたりしながら、戦国末期に至り、戦闘用城塞としての機能を重視した城作りへと変遷していく。
 このような例は、平賀氏だけでなく、同じく安芸国に入国してきた新補地頭の吉川氏、熊谷氏や天野氏などの場合にも典型的に見られる。
 
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