Samurai World>古城紀行>山城の変遷





山城の変遷を見る―小早川氏の場合

 
小早川実平は、源頼朝が挙兵したときから、頼朝を支えた側近中の側近で、平家討伐軍の大将として安芸国に早くから派遣され、平家方の切り崩しに暗躍していた。守護として当初は、有福城に在城していたこともある。
写真左は、沼田川沿いに残されている三太刀と呼ばれている丘である。ミタチとは、館を意味する言葉である。
伝承に拠れば、ここが小早川実平、遠平父子が、安芸国に下向した折、最初に居館を定めたところと推測されている場所である。あくまで伝承であるが。
 
三太刀の他に、もう一箇所、居館として推測されている場所がある。
それが、写真右側の高山城山麓に広がる高台、塔の丘と呼ばれていたところである。現在は、住宅地となっている。
高山城への登山はここから登ることになる。
 
写真左は、高山城山頂部を見渡した風景。
とにかく広いの一言に尽きる山城である。
頂上部は、谷で大きく二つの丘陵部に分けられ、天然の要害を形成している。
 
写真右は、沼田川を挟んで対峙している高山城と新高山城の風景である。
両者の山城の相違点がよくわかる。
小早川隆景は、戦国時代末期、高山城から新高山城に本拠を移すが、それは沼田川から瀬戸内海へと行き来する交通、流通、軍事的な利点からと推測されている。
沼田川の船着場が山麓に直結され、そこから城へと登城していたと推測される。
 
写真左は、新高山城の釣井の段に残されている井戸跡である。ふつう山城には1,2箇所程度の井戸跡しか確認できないが、この釣井の段にはなんと直径1.5メートルから2メートルほどの井戸が6箇所もある。現在も水が確認できる。
これは、山城での日常生活を前提とするのが自然と考えられる。
険しい山城の中に、館、家臣の屋敷、菩提寺などすべてが用意されている空間が出現していたと考えられよう。
豊臣政権の時代になると、小早川隆景は、この山城を降り、瀬戸内海に面する三原に近世城郭を築くのである。
 
現在の国道二号線沿い、沼田川流域は、小早川氏が入部した当時は、まだ多くが湿地帯であったようで、これを開発領主として、歴代小早川氏が開発してきたのが、本当のところである。土地を開発し、市を開催し、流通経済の発達を促進する。小早川氏が瀬戸内海へ関わっていくのは、時間の問題であったようで、そこには計り知れない富の恩恵が待っていたからである。小早川実平が、源頼朝の催促にも関わらず、鎌倉に帰参せず、その子遠平の代あたりから、この豊かな土地に定着したのも、わかるような気がする。安芸国一の領主へと発展していくのである。実平は、平家討伐を通じて、瀬戸内海に深く関わりを持つようになり、瀬戸内海のもたらす豊かさに気が付いたのではないのか。
inserted by FC2 system