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有福城跡   広島県府中市上下町



有福城は、足利尊氏が幕府を開いたとき、幕府に抵抗して挙兵した備後南朝方の中心人物竹内弥次郎兼幸が拠った城と説明してあるが、むしろこの城をこのサイトで取り上げる趣旨は、土肥実平にかかわる城であるからである。
 土肥実平は、平家を一の谷に破ったのち、平家の勢力圏となっていた瀬戸内山陽道を抑えるために、備前、備中、備後の総追捕使に任じられ、後には備後の守護に補任される。
 有福城は、備後の守護に補任されたときに、実平が備後支配の活動拠点として拠った城と考えられている。
 この地は、有福荘の中にあるが、隣接する高野山領の荘園として発展してきた大田荘の支配も手がけようとしていたらしく、この地の在地豪族を手なずけながら、神領を横領していったようである。
 平氏追悼の活動の一方では、土地を私領化していこうとするしたたかな当時の武士の一面がうかがわれる。
 しかし、源平合戦が終結すると、実平・遠平親子は、1186年に後白河法皇から高野山へ改めて大田荘が寄進されると、源頼朝の命により、この地より退却し、備後と安芸国の境目にあたる沼田荘に本拠を構え、小早川氏として発展していくことになる。
 小早川実平が、沼田荘に在来していたかどうかはっきりしていないようだが、源平合戦の最中から、この地方にすでに触手を伸ばしていたことは確かなようで、高山城山麓にある塔の岡、沼田川沿いにある三太刀山など、小早川実平ゆかりの地は、彼が源平合戦の傍らで、在来していたゆかりの地として言い伝えられていったような気がする。


 

有福城は、広島県府中市(旧上下町)に所在する。現在広島県史跡に指定されている。

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