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出張城跡   広島市東区




  出張城は、この地に関東から下向してきた白井氏の居城跡である。古代に安芸国の国府があった現在の広島県府中町に所在する。
 白井氏は、関東御家人千葉氏の流れで、千葉常胤の子胤正が下総の白井庄に本拠を定めたことから、白井氏と名乗るようになったと伝えられる。
 白井氏が安芸国に下向してきた理由は明確ではないし、白井胤時が安芸国に下向して来た時期についても、14世紀末ごろとされているが、諸説があってはっきりしない。
 この出張城に在城していた期間は、この胤時から賢胤の八代約180年間ほどと言われているが、広島湾頭沖合いにあった仁保城が後期白井氏の本拠という説もある。毛利氏台頭後は毛利氏の家臣団に組み込まれて、長州へ移動している。

  白井氏は、15世紀末頃には、すでに安芸国守護であった武田氏の警固衆としてその配下に組み込まれている。
 白井氏は、広島湾の入り口を押さえる位置にあるこの出張城と沖合いに所在した仁保城を根拠に、 一貫して瀬戸内警固衆の領主として、始めは武田氏、武田氏が滅亡したあとは、大内氏、大内氏の滅亡したあとは、毛利氏の配下として働いていく。
 武田元繁が有田合戦で毛利元就に打たれあと、武田氏の勢いが衰退する。それを契機に大内氏が武田氏攻撃に着手する1524年頃から、武田氏を離れ、大内氏の警固衆として配下に組み込まれ、重臣扱いをうけたようである。
 1555年の厳島合戦の折には、大内氏の跡を引き継いだ陶晴賢の陣営に付く。陶晴賢は、当初警固衆の統括者として重臣の弘中氏を考えていた言われているが、白井氏の警固衆としての実力から、白井氏が大内陣営警固衆の統括者として位置付けられたと言う。
 しかし厳島合戦中の白井氏の動向ははっきりせず、厳島合戦後は、毛利氏の配下に組み込まれたようで、小早川隆景の指揮下で、毛利氏の防長制圧の警固衆として働いていく。
  周防大島に領地をあてがわれ、周防大島の大内氏水軍と白井氏とは厳島合戦から防長制圧後にかけて、毛利水軍の中へと編成されていく。
 関が原の戦いの後には、長州へ移動し、毛利氏家臣となる。
 
 出張城麓には、一時尼子方に組した七代房胤が、毛利氏と大内氏の連合軍によって城を囲まれ、自害し、その首を洗ったと伝えられている『御首の池』がある。
 現在、城跡は、何も遺構はなくほとんどが住宅地に変えられ、先端部だけがわずかに残されているだけである。この山が城であったことを知る地元の人々も少ない。
 むしろ府中町には白井氏の足跡はほとんどなく、古代以来の名家田所氏の史跡が多く残っている。


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