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神辺城跡   広島県福山市神辺



神辺城は、中世備後の中心的城として長く、戦乱の渦中に置かれていた。
 古代には国府の所在地府中が置かれていたのは神辺町の東隣の府中市であったが、中世になると備後の政治の中心が神辺に移動することで、神辺城は、中世武家時代の政治の中心的城となる。
 最初ここに城をかまえたのは、後醍醐天皇による建武中興によって備後守護職となった朝山景連と伝えている。その後、代々の守護職がこの神辺城を本拠とした。
 戦国時代となると、神辺城は山陰の尼子と山陽の大内氏の勢力争いの接点となる。当時の神辺城主山名忠勝は尼子方で、これを毛利方の山手銀山城主杉原理興が攻め、1538年に入城し、その後山名理興と名乗って備南に君臨する。この頃、城はさらに立派に構築され、城下町も整えられたと言われている。
 しかし、大内義隆の尼子遠征が失敗に終わると、再び尼子方の勢力が浸透するようになり、 山名理興が尼子方に寝がえったため、1547年から大内・毛利軍の本格的な攻撃が始まるが、国境に尼子軍が控え、なかなか手がたせず、孤立作戦にでる。
 翌1548年6月より大内・毛利軍が神辺城攻撃を開始するが なかなか落ちず、翌1549年まで続く。
 そのような膠着状態の中、安芸の国人領主平賀隆宗が最後の攻撃を一手に引き受け、平賀隆宗は1548年7月戦いの最中で病死するが、ついに平賀軍によって神辺城は陥落する。 山名理興は夜陰にまぎれ出雲の尼子氏を頼って敗走。 しかし後年、再び毛利氏に下って1555年に神辺城に帰還し、その後は毛利氏の臣下として備中進撃に携わる。
 江戸幕府が開かれると、備後には西の鎮守として譜代の水野勝成が配置されるが、福山城が築城されるまで、この神辺城に在城していた。
 水野勝成が福山城に移って、長く備後の支配の拠点としてそびえていた神辺城もその歴史的役割を終えた。






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